連載4 無名の、尊厳ある女性たちの声を届ける

1995年北京会議で「女性への暴力」が国際課題となる。2001年DV防止法。2004年に朗読「ひまわり」という舞台をたくさんの人と制作し、旅公演はじまる。思い入れのある発表原稿のほこりを払ってみました、の巻。
小園弥生 2022.10.20
誰でも

朗読舞台「ひまわり~DVをのりこえて」

2005年1月15日/アートとソーシャルインクルージョン国際フォーラム
(財団法人たんぽぽの家 主催) 事例報告原稿より

 

本日は発表の機会をいただき、ありがとうございます。

この報告の副題に「表現活動を通して女性が抱える問題を解決する」と付けてくださいましたが、少し違和感がありました。問題解決をするのはやはり政治や社会運動であろうと思います。2001年にDV防止法ができた時にも女性たちのたいへんなロビー活動がありました。新しく顕在化するニーズに見合った社会のシステムを作っていくことは重要です。しかし、同時に今を生きる人間が心から何かを感じ、自分に内在する力を信じ、人々とつながり、生きていく光を日々生み出すことができなければ、どんなに正義が叫ばれても、新たなシステムがつくられても、社会は殺伐としてしまうのではないでしょうか。アートはそうした希望や可能性をこれまでにないかたちで発信していけるものだと思います。私たちが朗読「ひまわり」を通じて行っていることも、そのようなことだと考えています。

(朗読舞台の記録VTR上映 5分)

まず、ドメスティック・バイオレンスという問題の背景についてですが。現在、日本全国の女性センターの現場では、相談室のしごとが目に見えて大きくなっています。私たち横浜のセンターでも2003年度、年間約6,000件の相談のうち、2,200件が暴力被害の相談でした。それも夫婦・パートナー間の暴力がほとんどです。家庭というものは憩いの場と長い間信じられてきましたが、暴力の温床でもあるという面が浮き彫りになっています。

DV解決は1995年北京の世界女性会議で採択され、国際社会の認識が進みました。女性たちは「悩んでいるのは自分だけではない。これは個人の問題ではなく、社会の問題なのだ」と考えるようになり、相談に訪れたり、女性シェルターを作ったり、利用したりするようになりました。

私たち横浜のセンターでも、シェルターを出た女性たちが1999年に自助グループを作りました。毎月集まって励まし合いながら、仕事に就き、子育てをする彼女たちに安全な場を提供し、見守るのが私たちの役割です。はじめは無表情だった女性たちが年月をへてその人本来の輝きを取り戻していくのをつぶさに見てきました。この朗読作品は自助グループのメンバーの語りから生まれたものです。そのことは大きなポイントでした。その語りは「わたし」個人の物語ではなく、グループでくりかえし語られるうちに「わたしたち」の物語となっています。その言葉を私たちは声にし、舞台に乗せ、べつの女性たちが伝えていく。そこに声の力が立ち上がっていったのだと思います。

***

次に、制作プロセスを説明します。

昨年2月、「DVをのりこえて」という題で、DV被害の自助グループメンバーの語りを公開の場で聴くということを初めて行いました。参加者は女性のみとしましたが、これまでは安全の面から、誰が来ているかわからない場で当事者が語るなどできないことだったのです。でも、「語りたい、思いを社会に伝えたい」という声を受けて、初めて場をつくることができた。その場でずしんと聴きとった70人くらいではもったいない。もっと大勢の人に届けられないか。それがこの作品の制作をはじめた発端です。ちょうどある企業から社会貢献したいと200万円の寄付をいただいたこともはずみになりました。

「声は力!  無名の、尊厳ある女性たちの声を届ける」をキャッチコピーにし、目的にしました。語りの録音を起こした原稿~小さな子を連れて女性シェルターを出、自助グループをつくってなかまとともに自立していく物語~を第一話とし、第二話は交際中の恋人からの暴力、第三話は精神的暴力、モラハラの体験が語られる実話を関係者からいただいて、それぞれ15分くらいに編集しました。「ひまわり」という作品名は第3話の終わりの詩のイメージから付けたものです。

構成・演出を、劇団青い鳥の演出家で役者である芹川藍さんにお願いしました。次に「朗読&舞台づくりワークショップ~DVをのりこえて」(参加費1万円)というチラシをつくり、公募すると、女性40名の応募がありました。猛暑の7月から11月の間には、25名に減りましたが。公演活動を11月から始めると、全国の女性センターからお呼びがかかり、約半年間で12公演を巡業している最中です。

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最後に、物語の当事者ではなく、公募で参加した市民が語り手となるということの意味について述べたいと思います。

被害を生き延びた本人がいつもいつもそれを社会に向けて語るのは不可能なことです。彼女たちは運動家ではなく、生活者ですから。生きてこられただけで十分に尊敬されるべき存在だと思います。この問題が特別な女性に起こるものでない以上、たくさんの別の女性たちによって語りなおされることで社会により広がり、深まっていくのではないか。そう考え、既存の劇団にお願いするのではなく、市民公募にしました。それが結果的にいま、作品の広がりと大きな意味を生み出していると思います。

志望動機では「表現活動をしたい」「社会的な活動をしたい」「暴力を受けていた母の追悼や自分や友人のために」という3つがクロスしていました。演劇や朗読、ダンスなどの経験者が半数。30代から60代までの方たちの共通項は「自分と向き合い、現状をのりこえ、自分を肯定してやりたい」ということだったように思います。何年も闘病して来られた女性が、だんだん大きな声が出るようになって元気になられたり、ご自身がDVを受けていた女性の参加もありました。離婚裁判で弁護士がこの公演のチラシを提出して「このような社会活動も行っている」と夫に反証する場面もありました。一人ひとりがこの表現活動を通して変わっていくのはたいへんなプロセスでした。舞台を届けるのが目的ですが、つくっていく中でいかに人間が解放されていくか、変わっていくかに圧倒され、それこそが醍醐味でした。

参加者のある女性は書いています。

「表現が大好きな私に、稽古は楽しくて新鮮でした。ところが、DVの実態を知るにつれて苦しくなりました。自分の中の傷口が痛み出したのです。こんなにつらい思いをしなくても、やめれば、とも思いました。でも私は自分の意志で続けたのです。傷をぺろぺろなめる日々でした。そのうちに自分らしい味がしてきたようでした。自分をはじめていとおしいと思った瞬間だった」

生きていくことは祈りのようなものではないかと思います。表現することは楽しみと同時に自分に向き合う苦しい作業です。しかし、それでもやっていくなかで自分の課題が明確になり、のりこえようともがく。また別の女性のDV を追体験し、共有していく。さらに体験はひとりずつちがっても、人はつながって生きていけるとイメージする。それらをこの活動を通じて体験している女性たちが演じる舞台を、見た人々がまたそれぞれに追体験し、感じ取っていく。たんぽぽの綿毛が飛ぶように、希望と葛藤が伝播していっているようです。

くりかえしになりますが、自助グループというすぐれたシステムの中で語り継がれた「わたしたち」の物語を、またべつの女性が語りなおすことで、社会正義の宣伝ではない、等身大の共感が広がっていくということ。それが社会の土壌をあたたかい黒土にしていく。そこに私は希望の光を感じています。 ご清聴ありがとうございました。

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発表原稿はここまで。

<b>原作を載せたフォーラムブックを二度作り、2000部を売り切った。こちらは2006年の新版。巡業を通した広がりについても書いている。2004年の旧版は制作過程について詳しい。その間に組織名も横浜市女性協会から横浜市男女共同参画推進協会に。。。</b>

原作を載せたフォーラムブックを二度作り、2000部を売り切った。こちらは2006年の新版。巡業を通した広がりについても書いている。2004年の旧版は制作過程について詳しい。その間に組織名も横浜市女性協会から横浜市男女共同参画推進協会に。。。

1995年以前、DVという言葉は聞かなかった。このしごとについては、残したものだけで段ボール1箱。職場の3階倉庫にも。それくらい、長い旅だった。中に16ページの通信「オンリーワン日記」が残っていた。朗読チームと職場内と巡業先の関係者だけに配布、50部限定とある。この読み原稿はその中にあった。発表原稿なので、まとまったことを書いている。実際に朗読舞台に参加していた人がこの文をいま読んでいたら、こんなきれいにまとめないで~、と言うにちがいない。このしごとがどうして可能だったのか、長~いプロセスの中のカオス、そしてエキスについて考えたことは次回に。

あ、でもその前に台本の中で私がとくに好きだった部分を記録しておこうかな。

第2話の女性がカウンセラーに言われます。

「“人生が本棚に並べてある本だとしたら、20歳から24歳までの本はあなたにとってつらいことしか書かれていません。でも、それもあなたの人生だし、変えることはできないんです。ほかの本は取り出してみていて、つらい本は見ないようにしていては、人生を否定していることになる。少しでもいいから、つらい本も取り出して読んでみて、こういう時期もあったんだよね、ってなれるように。ただ、そこでのポイントは、つらい本を開いたままにしないことです。なんで私の人生ってこんなにむだばかり!とか考えてしまうから。そうじゃなくて、気づいたら本を頭の中でバタンと閉じて、ちゃんと本棚に元通り戻してくださいね”」

本を閉じて戻す、をくりかえしていく。

「人生にいろんな色のついたイメージを持てるようになりました。けれども、自分が生きていくうえで落ち込みやすい部分というのは常に抱えていて、それは大雨が降った後は必ずチェックして修理や補強が必要なら自分でしなくちゃならない、一生続く作業だなと思います」。

彼女は自分を一軒の家に見立てている。

「自分を好きになるということはたいへんな難題でした。10年くらいかかったと思います。私という人間が一軒家だとしたら、はたから見たらちょっとゆがんでいて、変な家に見えるかもしれないけど、それが自分なんだなって思って、そのままである程度生きていけると思えた時に、私は自分がちょっと好きになれました。それは自分の中で長い年月作業してきて、やっと持てた感覚でした」 

DIYの人生は(つづく) ね!

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