#22 〈続〉南太田という土地の記憶~横浜の社会事業の始まり

横濱開港後、明治期発展都市の後背地の谷すじには生計の場を求める人々が全国から集まってきた。なかでも南太田から久保山へつづく窪地は「乞食谷戸」と呼ばれ、ここで多くの社会福祉事業が始まる。しかし関東大震災後に「住宅改良事業」があり、去る人が増えた。なぜなのか。
小園弥生 2024.01.07
誰でも

「横濱市南太田町(注1)字庚(かのえ)耕地、こうだけでは知らぬ人が多いが、『乞食谷戸』といえば例の貧民部落であることを知らぬ者はほとんどないであろう。西太田富士山下の真葛焼(宮川香山氏の陶工場)のところから仮定県道を離れ、久保山のふもとを坂道にかかって西へ入ること二丁ばかり、数十棟の板葺きの棟割り長屋が建ち並んでいるところに着く」(『横濱繁盛記』1904年 より)

(注1:南太田町は1901年の横浜市域拡大により太田村から改名し誕生)

この後の記述をかいつまむと、
「明治14年頃、乞食の菅原虎吉がやってきて紙屑拾いを始め、この町外れの山腹に小屋を建てて住んだ。それにならう者が増え、棟割長屋50、戸数120戸、人口500人以上の1ヶ村となった。家主は菅原ほか6,7人で十数軒くらいずつ持っている。家賃は日掛けで月に30銭から1円」

「居住者に純然たる乞食はいない。明治26年の雑業取締規則により無免許の屑拾いは市中に入れなくなったため、彼らの多数は許可を受けた屑拾い、木っ端拾いの営業人となった。500人中300人が従事する“紙屑拾いの本場”である。朝は夜の明けぬ5時頃から屑籠を背負って市中に出かけ、8時頃に帰ってきて朝飯を食べまた出かけ、昼頃に帰る。午後もう一度出る。紙屑は3軒の屑問屋に売り、1日30~50銭の収入を得る。女、子どもも銘々米代ぐらいは取ってくる。屑問屋では食料品、日用品、酒、薪、炭、荒物類まで売っている。掛け売りもする。風呂は家主の家の据え風呂に店子一同が薪を持ち寄って湯を立てる」

「きものはボロだが宵越しの銭は持たぬというふうだ。年に1度の杉山神社祭礼の際は家じゅう揃いの浴衣、たいへんな騒ぎで市中の町内よりはるかに賑やかだ」

「なお彼らはこの部落以外の者とは交際しない。寄り集まった者ばかりだが、団結心の厚いことはこの上もない。不幸の者があれば共同一致で助ける。恩も売らない。彼らが独立の生計を立てていくのもこれらのためだ。悪事を働く者もはなはだ少ない。盗みをする者も盗まれる者もないので、この部落では夜中戸締まりをする家はない」

***

この『横濱繁盛記』の記録は明治30年頃に書かれたと思われる。いっぽう、戦後のいくつかのレポートにも、こんなふうに登場する。

「関内から伊勢佐木町、弘明寺とつづく横浜の旧市街は大岡川の谷間に広がっている。清水谷戸はこの谷の北側の丘陵にはさまれた谷戸である。もう一つ大きなスラム、八幡谷戸と中村町は反対側の丘陵の裾にある。これらのスラムは湿潤な日当たりの悪い土地である。港や伊勢佐木町などの繁華街に接していて、あたかも表通りから隠された位置にある。清水谷戸(乞食谷戸)は「救育所」のあった太田村にある」
(斎藤保好「あるスラムの歴史」神奈川歴教協会報 第3号、1968年)

20世紀の初め、南太田町の谷すじには、居留外国人から始まる肉食を支えた大規模屠場、横浜最大の墓地と火葬場、結核療養所、孤児院などが集まっていた。労働力の需要があったとも言える。

明治2年の米価暴騰で、身寄りなく行き倒れ寸前の人々を神奈川県が収容した「救育所」も1870(明治3)年、旧 太田村東耕地に開設された。この施設は流民と刑務所出所者のため粥の炊き出しを始め、冬場にこれを延長して増えた人々を春に収容したものだ。病人以外は土工や軽作業など労役に出して賄い費をとり、運営は民間にさせていた。1902(明治35)年には横浜市営の「横浜市救護所」となり、市が南太田町霞耕地に移転新築、120人を収容した。1920年までにのべ約6,000人を収容し、内訳の最多は「行旅(歩けない)病人」、次は「精神病者」、「国費窮民」「らい患者」「市費窮民」とつづく。1945 年の戦災による廃止に至るまで、貧困、疾病、精神障害等に対応する唯一の複合救済施設であったという。

レポートの筆者・斎藤氏は先にみた「明治14年に屑拾いを始めた乞食の菅原虎吉」より「もっと早い時期に、乞食だけでなく(江戸から明治へ)近代の経済的社会的変動に適応できず零落した人々も多く移ってきたのだろう」と記す。

ここで思い出すのは無頼漢ながら貧者救済にあたった横浜名物男「赤帽子三楽」さん(1839-1906)である。彼は今も庚坂の上、新善光寺(横浜市南区)に立っている。生前、寄付を募って自分で銅像を建てたというツワモノ!  元々は理髪師で、寄付を受け長屋を建てて何百人を住まわせ、紙屑拾いを組織化した親分である。「棟割長屋50棟」は三楽さんが建てたのでは?  明治36年の書籍も残っており、数々の逸話がおもしろい。赤帽子三楽が横浜で闊歩し始めたのは明治5年というから、確かに菅原虎吉より早い。

***

この谷戸には次々と、さまざまな人士が救済事業に入るのである。まだ福祉という言葉がなかった頃。開港都市横浜の周縁、後背地に移り住み、働く人々を対象として、社会(福祉)事業は始まり、公的施設も開設され拡大した。以下、年表ふうに記す。


◆1888 (明治31) 年
私立尋常平沼小学校、南太田町庚耕地1,609に平沼久三郎が創立。在籍児298名。貧困による不就学児童の教育を行う。(創立の頃、横浜の就学率は全国より約10%低い58%。市内小学校は公立8で児童数8623、私立22で児童数2472)。
◆1889年
横浜孤児院開設。翌年財団法人となる。1902年、南太田町庚耕地1,459に新築なった孤児院院長に渡辺たま(前々回のレター#20にも書いた)が就任。孤児16名で開院していたが横浜市の委託も受け、拡大。
1923年には関東大震災で院舎18棟が半壊全壊したが500余名の避難民施療をへて、同年末には孤児241名入所。(1941年、横浜三春園に。現在も児童養護施設@金沢区で運営)
◆1906(明治39)年
 研究者で医師の増田勇がハンセン病患者の少なくなかった谷戸に「増田癩治療所」を作った。翌年、著書『癩病と社会問題』を発表、32名の患者を治療していたとある。 

写真は復刻版のコピーですが、<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/835945/1/1">国会図書館デジタルサイトで本書</a>が読めます。

写真は復刻版のコピーですが、国会図書館デジタルサイトで本書が読めます。

  
◆1912(明治45)年
アメリカ人のスメルサが福音伝道館を清水谷戸にひらく。子ども向け日曜学校、成人向け夜学など。
1919(大正8)年、救世軍士官 杉本春樹が伝道館を引き継ぎ、補助金や寄付を得て「明徳学園」を南太田町富士見耕地1103に設立、経営。不就学児童の夜学、保育、週1回の無料診療、夜間の女子裁縫講習など。
※清水ヶ丘にあったこの建物は明徳学園の第1隣保館への移管後、1936年に横浜市営母子保護施設「明徳寮」となる。さらに、終戦後は引揚者寮となった。
◆1914(大正3)年
1911年に開設された済生会神奈川病院 南太田町診療所が無料巡回診療を週3日始める。患者数は一ヶ月に1,445人。
◆1920(大正9)年
横浜市に方面委員制度できる(発祥はドイツ。日本では1918年に大阪が初。現在の民生委員につながる)。第1から第5方面に市域が分けられ、第1方面事務所が清水谷戸のある南太田町に置かれた(初め太田小、のち第1隣保館内に)。方面委員は各方面ごとに篤志家20-50名で構成。「細民」家庭を訪問調査し、世帯ごとのカードを作成。戸籍登録、家事相談、児童保護、診療券普及、職業紹介など行った。

<b>1920(大正9)年の横浜市はここまでの範囲だった。北は子安まで。南は磯子、根岸、本牧まで。この前年、横浜市に初めて「慈救課」という部署ができた。1年後には「社会課」となる。</b>

1920(大正9)年の横浜市はここまでの範囲だった。北は子安まで。南は磯子、根岸、本牧まで。この前年、横浜市に初めて「慈救課」という部署ができた。1年後には「社会課」となる。

<b>1928(昭和3)年の横浜市域は数年前の上の地図と比べて拡大している。北は鶴見、綱島まで。南は杉田まで。小机、羽沢、川島、保土ヶ谷、井土ヶ谷、日野、と内陸にも延びた。「横浜市社会事業所一覧」地図。</b>

1928(昭和3)年の横浜市域は数年前の上の地図と比べて拡大している。北は鶴見、綱島まで。南は杉田まで。小机、羽沢、川島、保土ヶ谷、井土ヶ谷、日野、と内陸にも延びた。「横浜市社会事業所一覧」地図。

【社会事業所】には市役所、託児所、職業紹介所、公衆食堂、市営住宅、外人住宅、収容所、浴場、宿泊所、救護所、臨時保護所、方面事務所、質舗、印刷所、婦人授産所、隣保館、合祀霊場、がナンバリングされている。


◆1923年
関東大震災。横濱基督教女子青年会(現横浜YWCA)が太田町5丁目の焼け跡 天幕内に設けた仮事務所は横濱連合婦人会および神奈川県乳児保護協会共同事務所とし、罹災民救助、乳児保護にあたる。
◆1924年
神奈川県が職業訓練の婦人授産所を蒔田に開設。和裁、ミシン、フランス刺繍などを講習。
神奈川県から資金交付を受けた総持寺が南太田町富士見耕地971に10畳間14室および講堂のある「お三の宮簡易宿泊所」(単身男子の労働合宿所)を建築、開設。また、お三の宮子供会も設立した。15歳以上の平均100人が宿泊、入浴付の宿泊料は15銭/日であった。
◆1926年
南太田公設小売市場、常設される。
◆1927(昭和2)年 
(前回のレター#21で書いた)横濱市第1隣保館が大岡川沿いの富士見耕地に竣工。震災で全壊、復旧後は生徒激増で経営難となった「明徳学園」は隣保館事業に移管。労働や子守のため就学できない子ども40名の夜学、80名の託児(1日2銭)など。

<b>関東学院坂田記念館には活動や会計報告、子どもの作文など史料が多くのこる。「関東学院セツルメント」小冊子には、「中区南太田町、俗称乞食谷戸は本セツルメントを設けたる思ひ出の地なり。今改造されて跡形なきまでに変化せり」とある。</b>

関東学院坂田記念館には活動や会計報告、子どもの作文など史料が多くのこる。「関東学院セツルメント」小冊子には、「中区南太田町、俗称乞食谷戸は本セツルメントを設けたる思ひ出の地なり。今改造されて跡形なきまでに変化せり」とある。


◆1928年
南太田公設浴場開設。
関東学院セツルメントが庚耕地、俗称「谷戸」の中心に6畳1間の一戸を借り、教授1名、社会事業科の学生10余名で社会事業実習として春に活動開始。喧嘩口論の仲裁、代筆、住民相談、貧困による不就学児童の補習や運動指導など。運動会を公設浴場裏の広場で行い、児童120名参加。(「谷戸が不良住宅地域に指定され、住民の大部分が移転散逸したため、同年秋、活動の場は神奈川区浦島町の共同長屋に移転」とある。)
◆1930(昭和5)年
大震災を契機に翌年設立された同潤会が震災後の住宅復興事業として2か年をかけ、古い住宅を取り壊し、「南太田町不良住宅改良事業」を完了。2階建てもある新築木造「庚台共同住宅」が建ち並び、谷戸の風景は一新するが、生業は変らず屑拾いの者が多かった。
(この共同住宅は1945年5月、横浜大空襲で南側半分が焼失)

<b>『南太田町不良住宅地区改良事業報告』財団法人同潤会、1930年 より</b>

『南太田町不良住宅地区改良事業報告』財団法人同潤会、1930年 より

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関東大震災で横浜市内は焼け野原となった。住宅の全壊・半壊は37,000戸、全焼56,000戸,死者23,000人,負傷者42,000人、行方不明3,000人、失業者18,000人を抱えた。この時期、震災復興のために横浜の社会事業は一路拡大。一挙に100を越える公私の施設開設をみたという (1945年5月の空襲でその6割が消失)

そのなかで「住宅改良事業」を媒介として何が起きていたか。
同潤会による小住宅団地が井土ヶ谷、新山下町、瀧頭町、大岡町に建設された(戸数は各412,280,184,124戸)。食堂、市場、児童遊園地なども付設される。が、1927年の不良住宅地区改良法公布後、横浜で最初の事業として着手されたのが南太田地区(246戸)であった。

事前調査によると、不良住宅に住むとされた事業対象者人口は276戸999人。1世帯あたり人数は平均3.95人。借家住まいは175戸で1戸平均5.4畳、家賃平均4円82銭であった。「居住者の大半が屑拾いを本業または副業としていて、ここには10戸の屑物問屋があり、選別精製工場、収納倉庫、取引店舗などの設備が不完全なため地区全体を汚物に埋もれさせる状態になるのが本地区の特色」という。そのため、共同住宅では問屋設備5棟も新築し、倉庫もつくった。

ところが、1930年の完成時点での居住戸は136戸、523人に過ぎなかった。さらに10年後の1940年には69戸、257人に激減してしまう。

施策は整然とした住宅を提供するだけでなく、住民の「保健上はもちろん風紀上にも看過しがたき状態の改善」が必要であるとした。住宅に管理事務所を置き、職業紹介、人事相談を行い、貯蓄や健康管理を奨励した。だが人々は共同住宅から出て行ってしまった。1934年の同潤会調査によると退去理由は「素行不良または家計困難に陥り無断退去(夜逃げ)」が最も多かったというが、内実は過半数が病気、失業等によるものであった。未曾有の生活再建困難時だが、新しい街の住民たるには、これまでと違って宵越しの金は散財せずに貯金せねばならず、家計管理をしなければならず、服も着替え、規律あるふるまいを求められたことは想像に難くない。

20世紀初頭に助け合い、夜中にカギもかけずに寝ていたコミュニティは共同住宅建設で一変した。しかし、街も住まいもきれいになったことは皆が賞賛する出来事だから、文句も言えない。ひとたび病気になったら支払えず、人々は去っていった、というのが私の仮説である。

***

「ジェントリフィケーション」(都市再開発)という言葉を思い出す。現代でも地価や家賃が高騰すると資力のない旧住民は住み続けられない。共有のものだった一つ一つが私有の立入禁止空間となる。たとえば海辺の小さな浜が、雑木林や路地の小道が、だだっ広い広場が。拾い物も集いもできるスキマ空間と、人とやりとりする楽しみがそこにかつてあったことは、後から来る人たちにもはや見えない。それは目に見えない貧困を加速させる。

都市の周縁で起きること、失われることごとは世界中で共通している。ご縁のあった土地を媒介に、もう少し掘ってみたい。(つづく)

★あとがき
大岡川の川沿いを10年ほど日々歩きながら、気になって掘っていたことを前回から書いている。「しごとのあしあと」ならぬ「川辺のあしあと」の読者に感謝して。

【参考文献】 

『横濱繁盛記』錦渓老人、横濱新報社、1904年/横浜郷土研究会編【復刻版】1997年
『南太田町不良住宅地区改良事業報告』財団法人同潤会、1930年
『横浜社会事業風土記』田中義郎、神奈川新聞厚生文化事業団、1978年
『神奈川県社会事業形成史』芹沢 勇、神奈川新聞厚生文化事業団、1986年
『浜のひかり』創刊号、斎藤保好、部落解放同盟神奈川県連合会六浦支部、1994年
『関東学院学院史資料室ニューズ・レター』No.13   2010年3月 
 「都市の縁辺を考える~20世紀初頭の横浜スラム再考」上・下 阿部安成、滋賀大学『彦根論叢』第335-336号、2002年

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