#21 南太田という土地の記憶~1927 横濱市第一隣保館
2012年頃、受付窓口で80代のおばあさんが「私が子どもの頃、ここは保育園だったのよ。通ってた」と楽しそうに話すのを聞いた。スタッフ一同「??」。地域の人々は、なつかしさと絶大な信頼を持って利用してくれていた。この土地には100年近い、いやそれ以上の歴史があった。人々の記憶があった。
2002年9月掲載と思われる神奈川新聞記事「ハマの60年代」。写真は下は現在の建物。上は同じ場所にかつて建っていた建物。
かつての建物は元は1927年竣工の「横濱市第一隣保館」。中区から分区して南区ができた1943年、南区役所となる。横浜大空襲ををくぐり抜けた建物は、記事によれば1960年に改築されて南公会堂となり、1977年に取り壊されるまで「大岡川の川面に堂々とした風格を映し続けて」、50年間ここに在った。
隣保館は関東大震災で大打撃を受けた横浜市の復興事業の一環で、1927(昭和2)年7月に開館した。第5まで設置されたが、なんと言ってもここが第1で、最大規模だった。小さな平屋家屋が軒を連ねていたこの地域で、3階建ての鉄筋コンクリートの建物はランドマークのようにそびえていたという。「とにかく大きかった」「隣保館には幼稚園もあり、子どもの頃はよく映画上映会に行った」「姉がお針を教えてもらっていた」「地域に根ざした活動をしていた」と近所の年配者が記者のインタビューに答えている。
そもそも「隣保館」とは? それは近代資本主義が生み出した貧しい人々を救済する社会事業の拠点であり、19世紀末イギリスのトインビーホールにさかのぼる。アメリカでは移民のるつぼであったシカゴのハルハウスが有名だ。欧米では「セツルメント」と呼ばれ、慈善家や学生らが地域に分け入って拠点をつくり、住民の相談に乗り、医療保健を提供し、生活を半ば共にしながら子どもたちに糧食、読み書きや遊び等の文化的体験を提供した。ハルハウスを作ったJ.アダムス女史の自伝は岩波少年文庫で村岡花子訳(『赤毛のアン』の訳者)で読めるが衝撃的な逸話が出てくる。クリスマスにキャンディを山盛りに飾って移民の子どもたちを迎えたら、子らは吐いてしまった。子どもたちはそのキャンディ工場で夜通し働いていたのだ。
セツルメント活動は民間の篤志家や宗教家が始めたものだが、日本では第一次大戦後の大不況と関東大震災による打撃を最も受けた貧困層に対して米騒動のような反乱を起こさせないよう「思想的に善導」し、生存させるために行政施策として発展し、民間の慈善事業を補完した。横浜の大規模な「隣保館」建設はこの一環である。大正末期から昭和初期のことだ。この公立セツルメントは極めて日本的な特殊事情で、「いわばあだ花的存在、疑似セツルメント」だと社会福祉研究者の一番ケ瀬康子は論じる。実際、その後太平洋戦争となり、公的な活動は10余年で終局を迎えてしまう。
「社会事業科の学生が実習するために1928年、関東学院大学のセツルメント活動が南太田町庚耕地の「谷戸」で始まった。喧嘩口論の仲裁や代筆、その他いろいろと住民の相談に乗った。貧困のため、不就学の児童も多かった」と記されている。これはネット上で読める。
南太田でも、民間ではキリスト教精神に基づき関東学院大学セツルメントが1928年、庚台に住宅一戸を借り、学生10余名で活動を始めている。(セツルメントで有名なのは東京大学で、加賀乙彦の小説にも描かれて面白い。が、実は私が入学した1979年の横浜市立大学にも「川崎セツルメント」というサークルがあり、私もk団地の子どもたちに勉強を教えに行ったことがある)
南太田の第1隣保館の大講堂は二階席もあり、記録をみると500人は入る規模であった。現在も残る開港記念会館の大講堂のようなデザインだ。
大震災で壊滅した都市・横浜には大阪府より義捐金33万円という巨額が「セツルメント指定寄附」として寄せられ、そのうち22万円を使って「まず乞食谷戸を控えた南太田に貧民地区改善のための事業が始められ、ついで内務省交付金90万円を得て4カ所(隣保館)を増設した」という。第一隣保館は中区南太田に、第二は中区中村町に、第三は(西区)浅間町に、第四は神奈川区子安町(のち鶴見区潮田町)に、第五は(西区)戸部町に設立。
中区南太田町富士見耕地948番地に建てられた第一隣保館ではお産や診療も無料で提供され、学校に行かれない子どもには夜学で読み書きを教え、共働きやひとり親などで子どもをみられない世帯には1日2銭で預かり、子ども80名が在籍した。保母は4名。「保母の苦心は多大である。けれども身体は概して強健でよく活動し、またよく人に馴れて初対面でもはじらふ気配なくよく語り戯れる愛らしさはこの託児所の特徴である」と昭和3年の第1隣保館報告書に記されている。
法律相談は委託した弁護士が、人事・身の上相談は隣保館官庁が担当していたという
同報告書によると事業は3つ。
①教化部……児童図書室、児童倶楽部(遠足、臨海学校、お伽会)、児童理髪と入浴、夜間小学部、託児部、婦人事業(裁縫講習、内職講習ほか職業訓練)、社会教化事業
②相談部……人事・身の上相談、法律相談、保健相談、妊婦相談、眼科診療(トラホーム撲滅が目標)、歯科診療
③調査部……細民(窮民)調査、職業婦人に関する調査、近隣居住者調査
託児には1日平均60名、夜間小学部には平均24名の児童が通っていたという。「お産は何時でも」の添え書きがある。
第1隣保館の総面積は478坪。65坪の大講堂には主催講演会で年間数千名が入った。方面委員(戦後の民生委員)事務室、理髪室、保母室、24坪の図書室、講習室、医療室、保育室、浴室、宿直室、ピアノのある音楽室、娯楽室、調査室、24坪のギャラリー、授産室、小集会室、料理場、事務室、館長室、などがあった。館長公舎も敷地内にあった。
組織は横浜市社会課(社会福祉事業を担当)に属し、公務員約20名態勢。産婆・看護婦・保母は詰めており、嘱託で弁護士・医師・歯科医も委託されていた。「横濱市隣保館使用条例」が定められ、一般に貸館もしていた。大講堂使用料は1回30円、集会堂15円、ピアノ10円。医療的な処置料・薬治料は1回各10銭、注射は20銭、(出張)助産料は2円、となっているが、支払えない人には無料であった。
「社会教化事業」とは社会に適応させるのが目的である。講演会には相当数参加していたが、「聴衆も又一回一回と移動して断片的に終わるのでその効果の少なきことを感得させられた。現今は過渡的でやむを得ないが、将来は聴衆の種類、区域等により小なるグループにて催し、効果の深みを加えたい」と記されているのが興味深い。催しは館内で行うだけでなく、3000人の音楽会を弘明寺観音前広場で、1000人の映画会を日枝第一小学校で、寺で、などあちこちへ出前開催している。
弁護士の「法律相談」は市内全域からやって来ており、相談の多い順では①借地借家またはその明渡し、②貸金売掛代金、③相続または戸籍、④婚姻縁組または離婚離縁 となっている。
「婦人内職」では「本館の環境は昔より(ハンカチーフなど)輸出品加工内職の本場と言われた地区であったが、震災後から打ち続く不景気で、仕事を失った婦人が多数ある。そこで、内地向け「ガマグチ」の製作を開始した。約1週間にて全工程の修練を終えて、あとは勤勉次第で1日50銭内外の工賃が得られる。目下の従業者は15歳~40歳の20名」とある。だが訓練の一番人気はその頃西洋クリーニング業が稼げたためか「洗濯講習」だった。
「近隣居住者調査」のうちの職業では、①屑拾い・屑問屋・古物商等が最も多く(これは南太田地区の特徴であった)、②自営業とその家族、③単純肉体労働、④職工、⑤職人、とつづく。
夜学に通う子どもの数や図書の貸出利用が男女別に記されているのをみると、女児は男児の半数程度である。子守や家事で働かざるを得ず、字も読めなかったのであろう。
その日暮らしの庶民にとっては、お産や医療、読み書き、保育、健康診断、衛生的な散髪、入浴などを提供してくれる場所、「映画会」や「音楽会」も体験できる、夢のような「隣保館」だったろう。それがまずもって南太田という土地に建設された背景については次回に。(つづく)
【参考文献】
『昭和2年~14年 横濱市社会事業一覧』『昭和3年~6年 横濱市社会事業概要』『横浜市社会調査報告書』ほか。(横浜市中央図書館 蔵)
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