#20 女たちの100年バトン~多世代でつくった一冊

『横浜連合婦人会館史~100年のバトンを受けとる』のおはなし。1923年の関東大震災をきっかけに、婦人団体が連帯し、人々を助けた。それを可能にしたものはなんだったのかな。それから100年。着物も作法もツールもちがうけど、必要なものはつくる。組んで動く、記録することの重みを受け取って。
小園弥生 2023.09.03
誰でも

倒れそうな猛暑で配信も夏休みに。でも、9月1日をスルーできないのでぐわんばる。と思ってぼちぼち書いていたが、最後に小さな人たちと海で遊んで疲れ、食中毒にもなってしまい、とほほ。遅れるのもよしとして。みなさまの夏はご無事でしたか?

江刺昭子さんと嶋田昌子さんと

入職した1993年と最後の2022年。偶然ですが、江刺昭子さん(女性史研究家、作家)と故・嶋田昌子さん(横浜シティガイド協会功労者、横浜の町と女性の歴史かたりべ)のお二人に、仕事上でたいへんにお世話になりました。そのむかしランドマークタワー13階にあったフォーラムよこはま開館の年に行った「横浜の女性たち」の歴史写真展。嶋田さんにお供して旧・生糸検査所やいろいろなところを歩いたのはぜいたくな時間でした。そして最後は、ごいっしょに読んだり編んだりした『横浜連合婦人会館史~100年のバトンを受けとる』を刊行。いつも江刺さんはピリリと効いた青唐辛子のような監修者で、嶋田さんは人をじわっと包み込み引っぱるタイプ。硬軟のお二人にリードしてもらった「いま受け取ること」座談会の記録も本には収録しています。「歴女」として、これらは幸せなしごとでした。

<b>2021年10月 ホテル・ニューグランドで。左はお元気だった嶋田昌子さん。野村ミチさんの孫、野村弘光さん(右)にお引き合わせくださって。ニューグランドの2階は市民広間といって、だれでも入れると、この日初めて知りました。</b>

2021年10月 ホテル・ニューグランドで。左はお元気だった嶋田昌子さん。野村ミチさんの孫、野村弘光さん(右)にお引き合わせくださって。ニューグランドの2階は市民広間といって、だれでも入れると、この日初めて知りました。

原稿用紙にインクで書かれたお宝を、二代目の横浜市婦人会館として1978年に出発した館の奥深いキャビネットの風呂敷の中から見つけたのは2019年春だった。目パチクリして読む。すごいものに、よばれてしまった。組織内で静かに共有する。が、その年も翌年も手をつけられず、寝かしておいた。コロナ禍。大修繕で休館し、少し手が空いた2021年にやっと編集作業をすることができたのは当時の職員チームのおかげです。

余談ですが、2022年4月にお祝いしましょと言われ、横浜市庁舎のツバキ食堂で3人でお会いし、お二人に花束を渡しました。それが嶋田さんと会った最期になってしまいました。そのとき江刺さんから「亡くなった高良留美子さん(詩人)のお嬢さんにこの前会ったのよ。片付けがそうとう大変そうよ」と言われたのがご縁で高良さんの部屋に通い、資料室をいま私は手伝っているのです。線路はつづく。

『横浜連合婦人会館史~100年のバトンを受けとる』

「大正12年9月1日の関東大震災によれる当横浜市の惨状は真に語るに言葉なく罹災民の窮状は、我等かよわき婦人をしてついにこれが救済事業のために団結して立たしむるに至れるなり。即ち同年11月25日、市内20有余の婦人団体が新たに横浜連合婦人会なるものを組織して婦人の立場より救護及び復興事業に当たらんことを期す。(中略)しかるに本会使命のあるところは唯々復興事業に止まらず、家庭改善の問題より、婦人の知的精神的向上、さらに進んでは社会福祉の増進、婦人に関する産業奨励など益々重大なるを感じ、ここにこれが具体的基礎事業として、婦人会館の設立を計画して、各方面に醵金を募り、大正15(1926)年11月起工し、昭和2(1927)年5月5日をもって竣成を告ぐるに至れり。」

<b>A5判248ページ。2022年3月。イラストははらだ有紗さん。新聞記事は2022年4月8日付朝日。松沢奈々子記者。1923年秋、横浜連合婦人会の活動がはじまった焼け跡テント前の写真がとてもいいんですよねー。</b>

A5判248ページ。2022年3月。イラストははらだ有紗さん。新聞記事は2022年4月8日付朝日。松沢奈々子記者。1923年秋、横浜連合婦人会の活動がはじまった焼け跡テント前の写真がとてもいいんですよねー。

横浜の婦人たちの社会活動は、開港以来あちこちから集まってきた商人の成功者の妻たちが担っていた。ビジネスセンスに長け、経理と組織作りが得意だった。1923年の関東大震災直後に「団結して立たしむる」って。団結ですよ! 仮設テントで横濱連合婦人会を結成し、力が集結した。その後に続く活動拠点の会館を自前で建てようと10銭募金を街頭で展開し、借金もして紅葉坂に「連合婦人会館」を建設。全国で初の快挙だった。

加盟団体を列記してみる。活動する女性たちの所属はこんな感じだったのか。。。

仏教婦人会/基督教婦人矯風会支部/横浜基督教女子青年会(YWCA)/櫻楓会支部/横浜市女教員会/神奈川高等女学校/横浜高等女学校/フェリス和英女学校/真澄会/神奈川県看護婦連合組合/横浜市産婆会/仏教婦人救護会支部/捜真女学校/共立女学校/共立女子神学校/横浜英和女学校/若草会/海岸教会婦人会/横浜組合教会婦人会/第一美普教会婦人会/指路教会婦人会/神奈川バプテスト教会婦人会/横浜メソジスト教会婦人会

2人の女性リーダー

温厚で考え深く、前に出ずとも人がついてくるリーダーであった渡辺たま(1858-1938)横浜連合婦人会会長は横浜孤児院長を長く務め、夜学から女子商業学校も創設した社会事業家。自らは書いたり語ったりしない。黒船に石炭を供出した海産物石炭商に始まり渡辺銀行をつくった夫から多額の寄付を出させ、大正期に女たちのソーシャルビジネスで巨額をつくり、横浜になかった図書館の設備にポンと寄付をしたり。連合婦人会館をみんなで建てて借金を返し終わったら、戦時体制となるころ、惜しげもなく横浜市に土地もろとも寄付してしまう。

たま亡き後、横浜市に会館移管手続きをしつつ、大日本連合婦人会にのみ込まれていく時代、残務処理の苦労を一身に背負ったのが、この原稿を執筆し、残した理事の野村ミチ氏(1875-1960)だ。昭和18年と記された手書き原稿に、明治からそこまでの横浜の婦人活動史を書くとともに、昭和10年代に 渡辺たま氏を慕って書かれていた会員たちの原稿もまとめて残した。野村ミチは1916年の横浜YWCA創立以来、戦後までの功労者。(夫は美術骨董商から大震災後に港横浜の復興の象徴として建設されたホテル・ニューグランド社長となった人物。骨董の「サムライ商会」時代からミチが帳場を切り盛りしていたという。)記録を残すことへの信念が感じられる。

昨秋、ウィキペディアを書くワークショップに参加したときに、未載であった野村ミチさんの項目を書かせていただいた。

<b>野村ミチ氏。野村弘光さん提供。著書『ある明治女性の世界一周日記』は明治41年に出版されたのを2009年復刊。船旅でも毎日書いていたというから、記録することは板についていたのでしょう。</b>

野村ミチ氏。野村弘光さん提供。著書『ある明治女性の世界一周日記』は明治41年に出版されたのを2009年復刊。船旅でも毎日書いていたというから、記録することは板についていたのでしょう。

100年たって日の目を見た原稿

ところで、どうしてこの原稿束は100年近くもお蔵入りとなっていたのか? 横浜大空襲でも焼けなかったのは、金庫の中にでも保管されていたのか? 原稿用紙は分厚い本冊と薄い別冊に分かれ、金文字を入れて製本されていた。戦争中に、書いた人たちが製本するとは考えられない。会館は戦後になって、旅館組合の運営する旅館「紅葉坂ホテル」になっていたのを横浜市が返還させ、改修して「横浜市婦人会館」を再興した(戦後の昭和20年代の手書き横浜市決裁書類や議会記録も紐でとじられていてワクワクした。廃棄期限を数十年こえて、お宝として取り置かれていたのだろう)。

1978年二代目の婦人会館開館を祝う広報紙に掲載された座談会からは、当時の市職員がこの原稿束を熟読していたとわかる。戦後、職員が製本したのだろうか。しかし、この記録の存在については広報紙にも、2008年に出た評伝『渡辺多満の生涯』にも、内容は載っているのに出典が一言も書かれていない。横浜の女性史を広めた嶋田昌子さんも、この記録は知らなかったと嘆息された。というわけで、お宝は100年たって日の目を見ました。ミチさん、たまさん、みなさん、記録を残してくださってありがとうございます。

婦人参政権のような政治的運動よりは、社会(福祉)事業にまい進した横浜の婦人たち。子細な年表。よくぞ書いて残してくれました。当時の横濱貿易新報(今の神奈川新聞)を図書館でコピーしたり、足りない分を嶋田昌子さんがとりに行ってくださったり。支え合って横浜復興に奔走した100年前の女たち。先達の息づかい。

ぜひお読みください。ウェブ上で読むのはこちら。紙では3館の横浜市男女共同参画センター、横浜市立図書館、南図書館などで借りられるはず。残部ももしかしたら男女共同参画センター横浜南に。。。やっぱり紙の本が好きです。

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