#19 施設管理人というおしごと

私の祝日。夏の海。管理人の人疲れ。空気と空間をつくる。行き場のあるなし。地域。ゆらゆら。たどりつかない。暑い。ご安全に。
小園弥生 2023.07.23
誰でも

今日7/23は国民の祝日じゃない、私の祝日。35回目の。娘の誕生日ともいう。自分の誕生日より、子どもの誕生日のほうが毎年感慨深い。ほかのハハのみなさんはどうだろうか。痛かったのと、その後の長い痛み。。。(いやそりゃこっちのセリフだよ、と娘の声)。

もう一つ。35年前のこの日午後、なだしお事件が起きた。世界一過密な東京湾で自衛隊の潜水艦「なだしお」と釣り船が衝突し、沈没した釣り船の30人が亡くなった。その後判決を受け、「なだしお」艦長は失職した。私は東京湾フェリーが大好きだけど、東京湾は怖いのです。潜水艦は見えないし。ヨットに乗る人や皆の安全を祈ります。ちなみに娘は夏海(なつみ)。

東京湾フェリーです。久里浜の対岸、金谷港は土産売場が充実。

東京湾フェリーです。久里浜の対岸、金谷港は土産売場が充実。

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さて、このレターですが、話が会社の仕事のことだったり(その連載のつもりだったのに)、プライベートだったり、読みにくかったらごめんなさい。何回で構成はこう、と初めに考えてはみたが、どんどんはみ出していくのです。今回は「施設管理人」という、たまたま与えられたしごとについて。なかなか奥が深かったので。30年間の最初と最後がこれだったので。

丹沢の春岳沢を沢登り。さすがに涼しかった。

丹沢の春岳沢を沢登り。さすがに涼しかった。

1993年にまだ「女性センター」であった公共職場に拾われたとき、私のしごとは市民活動のためのフリースペースの管理人だった。市民運動は知っていたが、「市民活動」という言葉は当時新鮮だった。5年後にNPO法ができるとも知らず。へええ、こんなことがしごとになるんかいな、と。しかし困ったのは破るのが得意なルールを、担当者としてつくらねばならないことだった。「利用のルール」は難航した。

居心地のいいカフェや居酒屋もそうだけど、管理人が場や利用者を「仕切る」のではなく、だれでも入れる空気をつくるのはそこに集まるみんななのだ。しかし、そこには管理人の目に見えない采配もきいている。困ったことが起きそうなとき、きちんと「介入」すること。店なら早い話、「出禁」。公共スペースではそうもいかないところがとてもむつかしい。自分の荷物を置いていく人が現れたり、営利目的でこっそり無料の場が使われたり。放置すると場は荒れる。介入はへたくそで、修業は続いた。

1995年に近くで国際エイズ会議があった時など、フリースペースはにぎわってにぎわった。毎日100人ぐらいの人がカウンターにやってくる。こんにちは。いまなにしてる? よく話し込んだ。お茶も出したり。イベントや展示が次々。土日の休みがなく、毎日交差点にいるようで、さすがに人疲れがした。休みはだいじだ。(この時の職場が「みなとみらい」という観光地にあったのも人疲れの要因だったかも)。

この連載を始めたのは「しごとのあしあと」ファイルが一冊残ったからなのだが、このころの修業時代のファイルはまた別にある。切り貼りした「市民活動応援講座」のチラシとか、助成金情報やつぶやきを載せた小さな広報紙「そよそよ」とか、インターネット以前の時代感がある。

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南太田の大岡川には毎年ゴールデンウィークから夏まで、クラゲがあふれていた。このように暮らせたらねーとため息。。。

南太田の大岡川には毎年ゴールデンウィークから夏まで、クラゲがあふれていた。このように暮らせたらねーとため息。。。

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時は流れ。最後の数年は施設の管理者として、これも事業企画だけでなく、管理人しごとがもれなくついてきた。すぐに結果が出るしごとは案外楽しかった。年季の入った会議室の真っ黒な床をたった数万円で剥離清掃した時には部屋が明るくなった。「トイレの便座をあたたかくして」といった要望をきいてそれが叶ったら喜ばれるし。小さなことごと。椅子を張り替えて色を合わせる、とか。空間構成はだいじだ。手入れがされている感じは利用者に伝わる。

このひさしをきれいに塗ったり、外国語の看板を付けたりもしたなー。中国語や英語だと目的が明確。

このひさしをきれいに塗ったり、外国語の看板を付けたりもしたなー。中国語や英語だと目的が明確。

繰り返しになるが、場の空気感と空間はそこに集う人々と時間の積み重ねによって作られる。南太田の交流ラウンジの窓辺が夏の午後はスクリーンになって、光の模様が揺れるのをみるのが私は好きだった。「婦人会館」だったその古い施設には40年以上の時間が積もっていた。今は亡くなったり、かつて若かった人たちの声がゆらゆらして。

南太田の交流ラウンジ窓辺でゴーヤを育てていた夏の午後。ゆらゆらの時間。

南太田の交流ラウンジ窓辺でゴーヤを育てていた夏の午後。ゆらゆらの時間。

暑い日、寒い日。行き場のない人がやってくることもあった。救急車を呼んだときのおじいさんは上品な人で、何がきっかけで家を失ったのかなと思った。破れた服のおじさんがやってきたときには設備員が「え、どこの現場で働いてたの?」といい感じで対応してくれた。少し休んだらその人は出て行った。そういう場合も入りやすいのは、私はいい公共施設だと思う(管理人は試されるけど)。

でも来るのは男性ばかりなんですよね。そして、昭和中期?生まれで家族が機能している場合、ホームレスは他人事と思いがちだけど、コロナ下で職を失ってバス停にいた夜に殺された女性は同世代だった。平成生まれのガールズ講座卒業生には「親が亡くなったらホームレスになる」と不安を繰り返す人もいた。頼れる親がいる場合である。頼れない人だっている。

余談だが、横浜市の生活保護はとてもよく事務的に対応してくれる。私がN区で若い女性に同行した時には余計なことは聞かず、必要な要件がそろっているかだけを淡々と確認し説明された。一度女性のワーカーが居住確認に住所を訪れ、まもなく決定された。good job!

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南区の施設は男女共同参画センター3館の中で施設も小規模(3000平米)だが、最少人数のフルタイム7人(アルバイトや設備・警備・清掃はもちろん多数)の職場。それで日々施設貸出・管理と事業のしごとが回っていたのは利用者に孤立している人が少なく、長年にわたりグループのなかまで利用されており、全体が下町の地域コミュニティに支えられているからだった。

その地域コミュニティに私は本当に助けられた。たとえば、地域の公園のおまつりに就労体験中の若者がスープを売りに出かけたり。受け入れてくれる世話人がいるからできることだ。支援する・される関係ではない、開かれた場で人に喜ばれたり親身にかかわってくれる人がいるという体験は彼女たちの血肉になっていった。時にはアルバイトを世話されるスペシャルも。今でも足を向けて寝られない何人かの方々の顔が目に浮かぶ。合掌。。。

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南区はもともと横浜開港の中心部を支えた自由労働者の住む地域で、中区の一部から戦争末期1943年に分区した。その時最初に区役所だった土地が現在の「フォーラム南太田」の土地。関東大震災後1927年に建った第一隣保館を庁舎にした。そのさらに前には「お三の宮労働合宿所」という貧困者のワークハウスが建っていた土地。横浜の社会福祉はこの地域のいくつかの谷間から始まったといっても過言ではない。

そのことを書きたいと思っているのだが、なかなかたどり着かない。お暑うございます。みなさま、どうぞご自愛ください。電気代も気になる夏です。公共施設で涼むのもよいかと。。。

あら、ボルダリングしちゃった。。。

あら、ボルダリングしちゃった。。。

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