#24 港ヨコスカ、ヨコハマ、女たちのこと
1980年。横須賀で1人暮らしを始めた私は一冊の写真集を買った。その数年前にはベトナム戦争を忌避し脱営間近の米兵がたむろしていたという山本ビルの二階で。石内都の第一写真集『絶唱、横須賀ストーリー』(写真)を買った。えいっ。値段の3,500円は当時、最賃で一日働いて得るお金だった。石内さんが赤線地帯を撮った『連夜の街』という写真集もあったが、それは19歳の私には痛すぎた。
翌春、ドブ板通りの廃業したキャバレー ニューセカンド・ヨコスカで石内都写真展が開かれた。そのときのチラシは後生大事にとってある。
この正面の建物はドブ板通りから出て汐入駅に近いところで、2024年のいまも残っている。1979年、写真通信社 刊
この写真集を石内都は引退間近の山口百恵にも電話して贈ったという。少女時代にヨコスカという街から受けた傷を撮影し この街と決別する、とエッセイに書いている。
1980年頃、私の知っているドブ板通りでは、米軍警察MPが巡回する通りの店の前でおばあさんが中年の女の人の髪をといていたり、裏通りの大黒湯では夕方になると刺青の入ったお姉さんたちが肌を磨いたりしていた。が、もう娘が歩けない通りというほどではなかった。
最近『塚山公園と按針祭とパンパンと美空ひばり』(杉山一夫、めい出版、2018)という本を読んで1950年代のドブ板通りを想像した。「ヒロポン患者急増 横須賀 市内に約3,500名の夜の女の4割が中毒」というのは1953年の神奈川新聞記事だ。「横須賀で暴力団狩り モロッコの辰(稲川会) 一家6名を検挙」のときに辰は中毒で逮捕もできず数日後に死亡、とか。ひゃー。
しかし、さらにその本で紹介されていた『開港慰安婦と被差別部落』(川元祥一著、三一書房、1997)を読んで、驚愕した。
RAA(進駐軍特殊慰安施設)も、開港時の外国人むけ遊郭も、国家の一大緊急プロジェクトだった。のは知っていたが、そのなかみは想像を絶する。RAAは1945年8月18日に内務省から特殊慰安施設を用意せよとの無線電報が出ている。10日後には占領軍が上陸しているのだ。興味のある方はこの一冊をお読みいただくとして、私の驚愕ポイントを羅列する。
・焼け野原の横浜では「一般の婦女子を守るため」、本牧や真金町等の花街から郷里へ帰っていた女性たち80名をかき集め、山下町に焼け残ったアパート互楽荘を慰安所にした。そこに何千人の米兵が列をなしたため、一週間で閉鎖。女の奪い合いでけんかが絶えず、日本の警察では収拾つかなかったという。そこで横須賀の海軍工廠跡(安浦)に、この種の施設ができた(『神奈川県警察史』)
・募集人と女性に公務乗車証明書を発行して無賃で乗車させ、女性には米を支給した。
~ちなみにRAAは横浜や横須賀だけではなく、内務省通達により全国展開された。
・時はさかのぼり、江戸末期。神奈川港の開港を迫られた幕府は東海道の宿場に外国軍を入れまいとして、代わりに100戸の寒村だった横濱を出島に見立てて開港。全国から農民2万人を動員して入江を2か年の突貫工事で埋め立てる公共事業を行う。1860年、ここに15,000坪の港崎(みよざき)遊郭を開設。遊郭の土地は大火災後、横浜公園となり、現在は横浜スタジアムの敷地がすっぽり、そのものである。
・遊郭は世界中にあっただろうが、民間でなく国家権力である幕府が設営したのが特徴だ。江戸に外国人を入れまいとする必死の防御でもあった。
・場所は作ったが、吉原や品川の業者に依頼しても外国人相手は女性から忌み嫌われ、集まらない。品川宿の遊郭経営者 岩槻佐七が港崎遊郭の名主元締めとなり、岩亀楼をつくる(今も岩亀楼灯篭は横浜公園の隅の日本庭園入口に残る)。のちに外国人が遊女を妾にしようとするときには、岩亀楼の許可をとらなくてはならないほどの権勢をもった。
・女が集まらないのに困り抜いた元締めはあるとき、横浜港に停泊中のゼンクス号(ロシア捕鯨船)に3人の遊女がいたことを知る。その女性たちは貧しい農漁村から来たという。そこでプロの遊女をねらうことをやめ、近村の女たちに金をやって集めることにした。有望の村が関東で30余ケ所。主に相模、武蔵の「特殊部落」の娘を集めたという。(『横浜市史稿 風俗編』)
・1860年の港崎遊郭開設時、59軒に遊女570人。経営方式は吉原と長崎丸山の両方をとったが多くは丸山方式で、これは遊女が外国人の家に出向くので「一夜送り」「一夜行き」といった。
・港崎遊郭は1871年の大火災で、逃げ遅れたり逃げても沼地にはまり、遊女30名が犠牲になる。遊郭は長者町、さらに高島町へと移転したのち、1888年に真金町・永楽町に移る。横浜遊郭である。
石内都『絶唱、横須賀ストーリー』より。安浦の旅館。1977年撮影。「いまだに80軒ぐらいの店が商売をしている。突然ヤクザ風の男が出てきて因縁をつけはじめた」と索引にある。
このレター #21と#22で南太田の土地のことを書いたが、調べる中で開港当時 被差別部落の女性が外国人相手に集められたことは読んで知っていた。私があっと驚いたのは終章だった。歴史は繰り返す。
「桐生市の被差別部落の女性が敗戦直後、進駐軍相手の「慰安所」に行ったのはほとんど横須賀であった。横須賀の安浦には桐生市の被差別部落から出た男性が経営する「女郎屋」があったという。戦前からであろう。住吉屋といった。娼楼の一つである。私(川元氏)の考えでは、このような店の経営者が敗戦直後、警察に頼りにされ、警察ともども女性募集に動いただろう。住吉屋の経営者はまず自分の出身地に戻って女性を集めた。パラパラと村を出ていく女性が増え、N氏の記憶では30人は行った」(部落解放同盟桐生支部の支部長N氏の談話をもとにしている)。
江戸時代に皮革業、警備、旅芸人宿など一定の職業を持っていた被差別部落の人々は明治の「賤民廃止令」以後、仕事を失い困窮をきわめていたという。桐生市の被差別部落は500戸以上ある都市型集落だった。ここには何人かの女性のエピソードも紹介されている。
ところで、石内都は1947年桐生市生まれだ。その母は『Mother's』という写真集で追悼されているが、群馬で初めての女性運転手で、戦前に大陸まで単身出かけた稼ぎ頭だった。戦後横須賀に一家は夫の出稼ぎに伴い、移ってきた。
石内さんは織物の産地だった桐生の土地を大切に思い、近年は桐生で刺繍をほどこしたスカジャン(ジャンパー)から発想した「桐ジャン」制作を若い人たちと手掛けている。かつてヨコスカで負った心の傷を、昇華しているかのような。単純すぎるかもしれないが、私のなかで物語が一周まわって、ストンと落ちた。
横浜スタジアムは、深い沼地の歴史をもつ土地だった。遊女たちに自由のはなかったけれど、日常の小さな楽しみや好きなことはもちろん、夢も野望もあっただろう。そしてまた70年後の1945年、郷里からRAAなぞ知らずに家族の食い扶持のためやってきた女のひとたちも、何をつぶやいて生きていたのかな。
そんなことを考えて、次に有吉佐和子の港崎遊郭を舞台にした短編『亀遊の死』(新日本文学全集4)を読んだら眠れなくなってしまった。うーーー。うわのそらで出勤す。夏の夜におすすめですよー。
房州石の美しい蔵が写っている。買って44年たった今発見した! 鶴久保小学校の隣と書いてある。小学校はもうなくなったけど、こんど行ってみよう。
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