#27 『ある子どもの1945年~母の回想記を読む』をつくりました
■はじめに
母 小園優子(こぞの・まさこ)は丈夫で、ほがらかなひとだった。ゆっくりで、ねばりづよいひとだった。90歳まで毎朝50年も、近くの三ツ沢公園(横浜市)を走り、歩き、ごみを拾い、かつて中国旅行で身につけた太極拳をゆうゆうとしていた。百歳まで生きるかと思った。が、転んで入院。点滴だけで二年近くをへて2026年8月6日、息をひきとった。享年92。
家族葬で、ここに収めた「国民学校の回想」の一部を読んだ。学童集団疎開のことを、子にも孫にも話していた。「戦後を生きる原点」には書評なのに自分のことばかり書いてあった。
服も持ち物も少なく、質素に暮らしていた。が、こんなにも記録魔だったとは!
父に恋をした頃の日記、結婚を反対された親に宛てて書いた長い手紙、百冊をこえる読書ノート、原告となった裁判の記録、父と歩いた里山の地図類、語りべ活動の手書き読み原稿、子どもたちからもらった感想文の束、認知症寸前まで付けていた家計簿、などなど。
おーまいがっ。階段しかない五階の実家じまいに当たった私は途方に暮れた。
母のメモより。
「五年生の夏、新潟県の山寺で栄養失調になりつつ八月十五日を迎える (戦災孤児一〇〇〇人余、対馬丸の悲劇七〇〇人余)。国は破れたが命があった。もう死ななくてよくなった。飢餓戦争からの解放と親の元に帰れる喜び。東京に戻って学校の窓から眺めた夕日の美しさ。すべてがきらめいて見えた美しい秋だった。
<天皇も同じ人間>のショック、そして正しいと教えられた教科書を墨塗り。一行しか残らないページも。修身・歴史・地理の授業停止・奉安殿の解体・四大節(教育勅語)もなし。
翌年、新選挙法により女にも選挙権。女議員三九人。新憲法発布」
書き始めたのは、40歳を過ぎてからだった。1976年、『銃後史ノート』を制作するメンバーとなる。子ども時代を振り返るのに30年という時間が必要だったのかと思う。若い頃「いまわしい悪夢」として「塗りこめて」いたらしい。楽しくて美しいものに飢えていたのだろう、少女の母は宝塚少女歌劇に夢中になった。そのころの日記帳は宝塚のノートで。
再び母のメモより。
「メンバーのほとんどが子育て中、かつ仕事をもつ素人の戦後生まれの主婦と呼ばれる女たち(26~46歳)10人で<女たちの現在を問う会>発足。歴史書ではなく、(戦前・戦中の)当時発刊された生の資料(新聞・雑誌)や体験者に当たり、それぞれが主題を決め、分担して調べることに。国会図書館に通う。私は国民学校の皇国民教育から<教育とは何たるものか>を追求する。会の趣旨は<銃後の女たち>を対象化することによって、現在の私たち自身を検証すること」
私は鬼門だった両親とは距離をとっていたつもりだった。が、実際には私の自宅出産や子育てをずいぶん手伝ってくれた。亡くなって父のことはすっぱりあきらめがついても、母となるとそうはいかなかった。困りました。
母の中年期をともに活動した、むらき数子さんに会いに行った。本のもとになるインタビュー、テープ起こしや資料整理、校正などを手弁当で引き受け、たぶん嬉々としてやっていたことも知る。また山が広がってしまった。人の話を聞くこと記録することが好きだったんだな。
しかたなく、山々を片目で見はじめた。それらのスタート地点であった頃の記録をまとめてみることは、母の希望にもかなっているのではないかと思った。
これは1934(昭和9)年生れ、母のナラティブ(語り)です。お読みくださり、ありがとうございます。
2026年11月 小園 弥生

母の本棚が私の本棚に引っ越してきた。右は10代の頃の日記ノート。「読まないでよね」と草葉の陰から?
■も く じ
・はじめに
・『銃後史ノート』について
1 国民学校の回想(『銃後史ノート』創刊号 女たちの現在を問う会 1977年)
2 国民学校の回想・続~集団疎開(『銃後史ノート』第2号 1978年)
3 書評 戦後を生きる原点(『思想の科学』1984年9月号 No.52)
4 1947年「あたらしい憲法のはなし」が出た頃
・小園 優子(まさこ) 略年譜
・あとがきにかえて

横浜市西区浅間下のアジアンダイニングにて、晩年の母
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【追伸】
このレターは昨年春まで、長くたずさわった場づくりのしごとのまとめをあしあとに残すために書いていました。それらは紙の本に一応まとめたので「これで終わり」と書いたのですが、それからも配信を登録してくださる方、感想をコメントくださる方がいて、感謝です。
とくに一番読まれているのが「しごとのあしあと」には収録しなかった記事なのはうれしかった。 #22 #23南太田という土地の記憶(あのあたりの丘から横浜の社会福祉事業は明治時代に始まった話) そして#24港ヨコスカ、ヨコハマ、女たちのこと です。横浜スタジアムのある日本で最初の洋式公園、横浜公園がまるごと横浜開港前夜の港崎(みよざき)遊郭の跡地であり、そこにいた女性たち300人が大火事で逃げられず沼に沈んだことはもっと知られてほしいことと思うのです。
お読みくださり、ありがとうございます。
このシステムではどなたでも(IT苦手な私でも)本が元手なく作れます。のでXで紹介してくれた記事を貼り付けます。

2026-11-02 発売<br />
ある子どもの1945年~母の回想記を読む<br />
小園優子 著<br />
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個人出版支援サービス #パブファンセルフ を利用して出版された本です!<br />
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