連載14 韓国ドラマとソウル坂の町1991
しばらくぶりに、こんにちは。アンニョンハセヨ。年明けてひと月、人生初かも? 運動するように試験勉強していました。4日で過去問1200問とか。で、こもっていたら電気代がすごい!! 電気代のために働かねばとは、世も末です。試験終わってしばらく脱力。さて私は晴れてソーシャルばぁばワーカーになれるでしょうか。たぶん。新しい春です。
それにしても。FB友の方たちはお読みくださったかも知れませんが、人間は本当にストレスに弱い生き物である。自分というままならないケース(箱)をかかえて人は歩く。ケースウォーカーなのでした。私も。歩くのは好きです。(ソーシャルワークのことを昔の人は「ソーシャルウォーク」と言っていた。これって意味深いのね)
ストレスの重石の下ではまっていたのはネトフリで、韓国ドラマ「マイ・ディア・ミスター~私のおじさん」です。ソウル下町の濃ゆいコミュニティに支えられて、熾烈な競争社会を生きる人間ドラマ。ヤングケアラーの女子と心通わす、大企業に通う建築物構造エンジニアのおじさん。この仕事も面白い。そして抑制された愛情表現。。。どうしてこんなセリフが書けるのか? 余白も語ります。歌手のIUの名演技。最終の第16話は何回見ても涙腺故障。おじさんが泣くシーンがまたいい。一つだけ物足りなかったのは、名優のヒロインがずっと面倒を見てきた聾者の祖母が亡くなるとき。祖母は1949年生まれというのだから、どうやって地上戦だった朝鮮戦争を生き延びたのか、二言三言ぐらい語ってくれたらねぇ。ほかの韓国ドラマにもこれは言える。
このドラマについては『韓国カルチャー』著者・伊東順子さんの解説が秀逸でした。いま、だれもが困窮しやすい脆弱な社会なのに、その実態は見えなくなっている。このような女の子は日本にもたくさんいるでしょう。でも階層のちがう人同士はめったに出会わない構造にもはやなっている。ドラマでおじさんは女の子に、君のおばあちゃんは老人施設に無料で入れるはず、と制度を教える。これだけで格段に生活は向上していく。ほとんどの制度は知って申請しないと使えない。
本作を通じたメッセージ。人は対等に情けなく、弱く、生きる力もある者同士・同志としてあるとき出会って、人を助けることで自分も助かる、生きていける、だいじょうぶ! と伝えていると私には感じられた。いまソーシャルワーカーのグローバル定義は「人々のために」上からではなく、「人々とともに」働くという考え方をとる。弱っちいおじさんのしたことはこれだった。学歴こそないがどう見ても女の子はおじさんよりたくましい。「君は内力がある」とおじさんは言う。
ところで、物語の舞台である地域は、くねくねと曲がりくねった坂の町。デジャブー。まだこんな坂の町はあるのかしら? 1991年、ソウルの路地裏にピュルピュルと私の心は巻き戻された。今回は3歳の娘を連れて毎朝毎夕、保育園へと坂を上ったり下ったりしていたあの日々に書いたものを引っ張り出して。
30年は光陰矢の如し。大学の韓国語コースに半年通ったのは表向きで、日本から逃げて暮したような。私はろくに言葉も上達せず、子どもばかりがスラスラと話すようになった。なんたって12時間、保育園にいるのだから。私は「ナツミ オンマ」と呼ばれた。
「アイゴー、セーサンエ……(ああ、世の中にこんなことって)」
小園 弥生
(韓国女性作家短篇集『ガラスの番人』(1993年、凱風社)に収載 巻末のエッセイ より)
週末には子どもと低山に上るのが好きでした。すると必ず、山寺がありました。
●月に近い町の人々
晩秋のある日。ぐうたらと寝坊してしまった。朝10時頃、ナツミの手を引き引き昌信洞(チャンシンドン)の坂道を保育園へ上っていく。八百屋の店先には白菜が山と積まれ、雑貨屋の軒先にはピンクや水色のももひきがぶら下がっている。路地裏という路地裏では、分厚いゴム手袋をしたおばさんたちが塩漬けした何十株もの白菜の葉のあいだにヤンニョムを挟み込んでいる。馴染みの駄菓子屋や果物屋のハルモニたちにあいさつするナツミ。
「アンニョンハセヨ」「アンニョン。今朝もおそいねぇ」
町内でヤクルトを配達して回っている同じ保育園のお母さんに会いませんように、と私は祈る。寸暇を惜しんで働くお母さんたちの前ではなんといっても肩身が狭い。ところが、保育園へ上るくねくねとした階段状の路地の上り口に来たとき、ナツミが立ち止まり、そばの仕事場でミシンを踏む、仲良しの女の子の両親に向かって、ぺこりとあいさつした。「今日は風邪をひいて遅くなりまして…」と言い訳する私。その夫婦は毎晩8時に保育園から子を引き取った後も、遅くまでミシンを踏んでいた。
ここはソウルの中心部、鍾路区。数あるスラム街のうちの一つだ。東大門の脇から上っていく。韓国のスラムの多くは山の上にあり、タルトンネ(月に近い町)と呼ばれている。坂道を上れば、明らかに自前で急ごしらえしたと見られるバラックや、不定形の部屋、窓のない家などが見える。住人は、地方の農村出身者や、親が朝鮮戦争(1950-53)のとき北から避難してきたという人が少なくない。そして巨大な衣料市場がある東大門の上に位置するため、そこらじゅうに下請けの縫製作業場がある。
10代の娘さんが脇の小部屋で死んだように眠っているかと思えば、シューシューと湯気吐くアイロンのそばに赤ん坊がころんと寝かされていたりする。朝夕にはがっしりした荷積み用自転車に仕立て上がりの湯気立つ真っ白なワイシャツの山を積み込んで少年が往き来する。道ばたのゴミ箱に投げ込まれた色とりどりの端切れのあざやかなこと。
子連れで留学するのに保育園も調べずに来週から行くんだって? なんて無謀な! と心配してくれた知人の紹介で、3歳の娘はスラム街の人々を助ける運動団体が運営する安くて長時間保育の保育園に入ることになった。その近くに住まなくてはならない。「あんた。荷物が鞄一つしかないんだから、ここで十分」と不動産屋のおじさんにすすめられるまま、ちっぽけな部屋がごちゃごちゃとたくさんあるビルの中二階にある、二畳くらいの天井の低い部屋に私たちは住むことになった。しかし、異国で庶民の暮らしをするということがどんなにたいへんなことなのか、そのときの私にはわからなかったのだ。
その晩、雑居ビルじゅうのおばさんたちが、外国人の母子を一目見ようと押しかけてきた。「ちょっと。ほんとに日本人かねぇ、最近ここいらに増えてきた中国人じゃないかねぇ」などと言っている。その中に親切な楚々とした美人の母親が居て、「わたしは看護婦だから、子どものことは何でも相談してね」と言う。そして、今夜はうちの布団を使いなさいよ、と運んできてくれ、キムチとごはんまで分けてくれる。異国で受ける親切ほど痛くしみるものはない。
ところがどっこい、彼女はただの美人看護婦ではなかった。医者にかかる余裕のないスラムの住人たちを相手に、自分の赤ん坊をひょいと負ぶって往診に出かけ、疲労回復の注射を一本、二本と打ってやってはしっかりと稼いでいる。保育園が夏休みのある日、すでに韓国の動揺を口ずさむようになっていたナツミを彼女に預けて私は学校に出かけた。彼女の部屋は四畳半ほどの広さ。タンス、冷蔵庫、机、ステレオなどのすきまに3人家族がやっと斜めに寝られる。この界隈でまっすぐに寝られるのは金持ちだ、というのが私の結論だった。もっとも初めから三角形や台形の部屋もあるから、その場合はまっすぐが何かもさだかではない。
夜更けにギターをつまびく青年が上の階にいた。いつも終わりは南北統一を願う歌「その日が来れば」で締めくくられる(注:1987年に独裁政権が倒れ、やっと大声で歌えるようになった頃)。階段をネズミが走るビルで聞くこの歌は胸にしみ、どんな青年だろうと思う。と、翌朝共同便所からパンツ一丁のその青年がでてくるのだ。ロマンは一瞬にし……
トイレのトラブルはいちばんこたえた。電気がこわれていて点かない。暗いので戸をあけて子どもと入っていると、すぐそばの部屋のオバサンに怒鳴られる。「臭うってこともわかんないのかい!」 上の階にあるトイレにたどり着くまでに子どもが漏らしてしまうことだってある。いらいらする自分に私は泣きたくなった。気持ちを圧迫される天井の低さ。暑くなるほどに強烈になる道ばたのゴミの臭い。この町には木が生えていない。その道ばたで色々なものを拾ってくるナツミに「汚いからやめなさい!」と目くじらを立てる。
疲労困ぱいし、夜の散歩に出ては、よろず屋さんの縁台に腰掛け、OB缶ビールを一杯。(注:ペッットボトルのマッコリ1リットルが600ウォン。缶ビール350は800ウォンと高かった。ふだんはマッコリ1リットルを飲んで、ほろ酔っていた。)
抜き書きここまで。このあとまもなく韓国人の友人が見に来て「あなた。こんな生活していたらからだこわすよ。日本の貧乏と韓国の貧乏はケタが違うんだから。ひっこしなさい」と忠告。私は坂の下のほうのシャワーとキッチンのある清潔な部屋を借りるのに、日本から100万円(当時500万ウォン)を送金してもらわねばならなかった。チョンセというシステムだから、お金は出るときに返金されたが。市場の食堂のスンドューブチゲが大好きで、確か1500ウォンだった。ときどき納豆や梅干しがむしょうに食べたくなったけど。
広い部屋に引っ越したら保育園の先生が見に来て「まあ。ナツミオンマ。ここなら下宿人を3人は置けるわ」と言う。お願いだからほっといて、と私は祈った。
(2011年にこの町を再訪したとき、あのきれいだったアパートはなくなっていた。たった20年で。坂の中腹には「外国人移民センター」と書かれた立派な建物が建ち、町はきれいになっていた。だから「マイ・ディア」のドラマを見て、幻を見たような気がした。町々は猛スピードで再開発が進んだ)
保育園の遠足は歩いて景福宮(キョンボックン)に。右は保育園から坂を下りた東大門で、保育園の先生と。
このエッセイに私は韓国の儒教社会で女がいかに生きにくいかを書いた。民主化で活気のあふれていた頃。自分が押しつぶされそうになって書いていたのだが、当時の翻訳仲間からも不評だった。「どうしてもっと女たちの強さを書かないの?」と。そう。それは知っている。あれから女性省もでき、法律もどんどんでき、戸籍制度も廃止された。韓国フェミも文学もドラマも、厚みがあってまぶしい。
これは1995年に書いたものです。
女友だち
夜半に電話のベルが鳴る
ソウルの貧民アパートに住むウジニの母さんから
「ナツミ オンマ、あたしのこと書いた本、まだ出ないの?」
そうなのだ、キムチ用に台所でネギの皮むくご亭主を
いい男でしょ、と自慢していた彼女のことを書いて2年経つうち
彼は胃がんで死んでしまった
いい男のいなくなった部屋であたしたち
よろづ屋で仕入れたトンドン酒しこたま呑みながら
涙も乾いた彼女の前で、私ばかりが泣いたっけ
電話線から明るい声がひびく
「あたし、再婚するわ。ナツミ オンマも早くしなさい」
「かんべんしてよー。恋人のほうがいい」
「アイゴー、なんてことを」
生活抱えたウジニの母さんは
緑のスーツ着て化粧品外交員になった
売上げナンバーワン
今日も凍てつくソウルの路地裏を回っているかしら
「品質はわが社が一番のアロエ、アロエ化粧品はいかが?」
今回の試験では「社会調査」という科目にもうなったが、内容は面白かった。ソーシャルワークは19世紀末、欧米の貧困研究に端を発している。イギリスでチョコレート会社の御曹司だったラウントリーが労働者家庭の全数調査をして、必要な栄養を取れないという「貧困線」が発見されたのは1899年のことだ。これはのちに生活保護の基準づくりにもつながる。それまでは貧困はその人たちがナマケモノのせいだとなっていた。調査により、これは社会構造上おきている問題であると認識の枠組みが変わった。戦後の1960年代には相対的貧困という概念が出てきて、「貧困の再発見」といわれた。
時は流れたが、貧困の「再々発見」はされているだろうか。今日本で、ひとり親の7割が「こどもに必要な栄養がとれていない」と回答したという(キッズドア調べ)。野菜が食べたいと子供が言っても買えない、と。時代は逆戻り。そればかりか、今日の貧困は目に見えないものになっている。生理用品が買えないことが衝撃をもたらしたが、そもそもスマホをもち、それなりの服や身なりを整えて、人と飲食できるお金もなければ人々の中に出る・いることができない。有形無形の文化資本があるかないかで、その後の人生は半ば決まってしまうともいわれる。
ドラマや文学などの作品が社会を映し出す鏡だとしたら、社会調査は制度をつくるための土台だ。調査の仕事は得意ではなかったが、担当する機会には恵まれた。次回は、2015年にチームで行ったが苦労のてんこ盛りだった「非正規職シングル女性」に光をあてた調査について書いてみたい。まだ名前が付いていない問題に、なんという題で調査をするかワーディングから、頭をひねった。(つづく)
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