連載6 詩のよりみち~大きな大きな木の下で
週末、ネットフリックスで韓国ドラマを見ていた。今夏のドラマがもう配信されているのね。「ウヨンウ弁護士は天才肌」。自閉症スペクトラムの挙動ユニークなお姉さん弁護士が活躍するお話だ。その第7話で、美しい村の丘にすっくと立つエノキの大木が出てきた。村人たちは木の下でたむろする。ああ、なつかしい! 横浜市南区清水ヶ丘公園のエノキの大木のような。ゆずがPVを撮影したあの木。なにかを象徴する木。でもちょっと違うのは、韓国では必ず2メートル四方くらいの縁台が置いてあること。
私は大木に弱い。ヒマラヤ杉、もみのき、くすのき。。。さわって撫でて引っ付いて、もしもし?何百年生きているの? 年輪はすてき。ついでにバームクーヘンも好き。
走馬燈ぐるぐるぐる。思い出したのはこれでした。1992年に書いた(『想像』61号、1993年7月発行 より)。
神仙堂(シンソンダン)
朝鮮の田舎を旅してごらんよ
だれが植えたのか、村の真ん中に
きまって大きな大きな木がある
この木を人々は神仙堂(シンソンダン)と呼ぶ
木の下には野良仕事を終えた村人が集う
男たちはマッコリ呑みながら将棋をさし
女たちは笑いさざめきながら花札に興じている
その輪をついと抜け、駆けてくる人がいる
日本(イルボン)から来たの? 父さんの話を聞きに?
ご苦労なことだよ、今さら……
あたしの父さんはね
日本に引っぱられたまま行方が知れず
いまだに祭祀(チェサ)をあげることもできないんだよ
息子を産まなかった母さんは家を出され
朝鮮戦争で孤児になったあたしは
顔も知らない父さんと恋しい母さんを思って
孤児院の隅で泣いて育ったんだ
あたしのような遺腹子(ユボクチャ)が
朝鮮にどれほどいることやら
幼かったいばらの日々を映して
赤銅色にしわんだ顔はくしゃくしゃに歪む
沈黙のしじまに流れる青い言葉が
私の胸に満ちて川となる
その昔、人生の大事のたびに
人々は神仙堂に向かって祈ったという
相集う、憩いの木の下から
着のみ着のまま連行されもしたという
人々の祈りや叫び、笑いのこだまする
朝鮮の田舎を旅してごらんよ
だれが植えたのか、村の真ん中に
きまって大きな大きな木がある
大陸につづくまぶしい青の
空を千の手で抱きとめるようにして
神奈川新聞1992年10月24日付。写真キャプションには「証言するハルマヘラ島からの生存者(右)。8月、韓国慶尚南道」。左はわたし。李朝時代かと思うような韓国式家屋。赤いトウガラシが見えますか? 下はあるお宅で自家製マッコリをふるまわれ、恍惚となる。。。
「8月の終わり、韓国の農村では家々の庭という庭に真っ赤な唐辛子が干され、その上には抜けるように青い大陸の空が広がっている。日本ではちょっと見られない青さ。唐辛子の赤との対比は韓国の国旗、太極旗を思わせる。人よりも牛の数のほうが多い村々を回ったのは昨年(1992年)夏のこと。神奈川県渉外部国際交流課のしごとで、植民地時代に神奈川県内に住んで働き、集住していた人々を県内の市町村に残る「寄留簿」などの資料からたどっていき、日本で韓国で、生存者や遺族を訪ねて聞き取りをする旅だった。
どの人も植民地下の苦労、渡日して言葉もわからず金なく友なき異国での苦労を語ったが、予測できなかったのは戦後の暮らしだった。とりわけ軍属として横須賀海軍基地をへて南洋にまで送られた人々は、米軍による艦砲射撃や飢餓を生き抜いて奇跡的に帰国しても、からだはボロボロで働けず、病気療養のためにわずかな田畑も手放し、貧困にあえぎつつ今日まで生きていた。少なからぬ人々がトラウマの精神障害に苦しみ、発作・奇癖などで家族からも疎んじられ、変死した人もあった。
そうした夫をもった女たちの苦労はまた筆舌に尽くしがたい。自分が行商をして夫と子どもたちを食べさせてきたある女性は、私の手をつかむと「頭をさわってみなよ」と言った。長い年月、重い荷物や食べ物をのせて運んできたからだろう、彼女の頭は小さな岩のようにデコボコだった。」(後略)
デコボコの手触りは強烈だった。お腹の中に遺された子を「遺腹子(ユボクチャ)」というのか。。。このしごとは長洲一二神奈川県知事時代。立教大学の山田昭次研究室を中心に、日韓ジャーナリストで研究者の石坂浩一さんが事務局長としてしっかりマネジメントしていた。強力なチームがいくつも組まれていた。しごとをするのに、チームビルディングは最重要。目に見えない仕事をする人がちゃんといるかどうか。メンバーは目的を共有しているか。一人ひとりが働きやすい環境をどれだけ作れるか。今だからそう思うけど、よい環境があったから、私も楽しんで旅しごとができたよね。カムサハムニダ。
真鶴町役場にも、戦前の寄留簿を閲覧しに何日か通った。そこで戦前多くの人がここに働きに来ていた元の村がわかる。その、韓国の南の農村に行った。ある男性が、真鶴海岸に海軍桟橋を作る工事に父親が携わり、戦後の混乱で祖母の骨を持ってこれずに無念だと言い、埋葬したお寺までの道を話した。その後私たちのフィールドワークで、真鶴の寺にその墓が見つかったときにはたいへん喜んでくれた。
三浦三崎で、済州島出身のおばあさんの話をきいたのも思い出深い。先に来日していた同胞を紹介されて結婚。三崎でも海女をしていたが、漁業組合に入れてもらえず苦労した。「最近まで潜っていたけどね、今はもう品物がとれないんだよ」とも。もうみんな、鬼籍に入られたよね。このとき貸していただいた写真は物語る。
1939年ごろ。三崎の光念寺にて。朝鮮人船乗りのお葬式に集まった人々。
このプロジェクトには2,3年かかったと思う。『神奈川と朝鮮 ~神奈川と朝鮮の関係史調査委員会報告書』というずっしり重たい500頁の冊子に、県内全域を網羅してまとめられた。なんたって神奈川県のしごとなのだ。が、知事も代わって、まるでなかったことのように? 報告書は神奈川県や横浜市図書館の片隅に眠っている。機会があればぜひあなたの住む地域のページをごらんください。
大きな木から、時間をさかのぼってしまった。さて、話は現在に飛ぶ。
今年の春に退職して間もなく、紹介してくださる方がいて、昨年末に亡くなった詩人・高良留美子さん(1932-2021)の長女・竹内美穂子さんに私は出会うことになった。高良さんには若い時お世話になっていながら不義理をしていたご縁で、遺品整理ならぬ遺本整理のお手伝いに通うことに。ご自身の書き物や資料などは完璧に身辺整理をされていた。パソコンがない時代の手書き詩作ノートや、1950年代に国会議員だった母・高良とみ氏についてフランスへ船旅をするころの横浜港の写真などに目が釘付けになって。石垣りんや茨木のり子からの手紙。。。
ご本人がよく文学の国際会議で朗読もされ、英訳もされたという詩「木」が私は大好きだ。
これを紹介して今日は終わります。
木
高良留美子
一本の木のなかに まだない一本の木があって
その梢がいま 風にふるえている
一枚の青空のなかに まだない一枚の青空があって
その地平をいま 一羽の鳥が突っ切っていく
一つの肉体のなかに まだない一つの肉体があって
その宮がいま 新しい血を溜めている
一つの街のなかに まだない一つの街があって
その広場がいま かれらの行く手で揺れている
●詩集『見えない地面の上で』(1970年)より
The Tree
Within a tree there is a tree which does not yet exist.
Now its twigs tremble in the wind.
Within a blue sky there is a blue sky which does not yet exist.
Now a bird cuts across its horizon.
Within a body there is a body which does not yet exist.
Now its sanctuary accumulates fresh blood.
Within a city there is a city which does not yet exist.
Now its plazas sway before me.
この詩は留美子氏が美穂子さんを出産した直後、1968年に書かれている。ベトナム戦争の時代でもあった。そんなことを言うと視界を狭めるかもしれないけど、産むことが新しい街や広場に通じているとは。。。3連目の「宮」の英語が「sanctuary」! うなりました。
人との協同をけしてあきらめず、後進を励ましてくれた、スケールも身長も大きな詩人だった。
2年間限定の資料室(@自由が丘)を美穂子さんが心込めて開室され、月一回のオープンデーが始まります(なぜか私は世話人に)。11/19(土)が初回。遺された80冊のスクラップブックを眺めるのもわくわくします。気になる方、どなたでもおいでください。
ご案内はこちら。高良留美子資料室 にてごらんくださいまし。
(つづく)
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