連載5 無謀なしごとといわれても
大好きな花はひまわり
太陽に向かって あざやかに黄色に咲いている
自分で咲くことがうれしいのだ
だれかのために咲くのではなく
咲くこと、それ自体がうれしいのだ
昨日までは夫のために生きてきた
けれども今日からは 自分のために 自分の足で人生を歩き出そう
突然の雷雨に打たれても
日がのぼればまた顔を上げて堂々と咲く
冷たい秋風に枯れ果てても 季節がめぐり
夏が来ればまた ぐんぐんと伸び 大輪の花を咲かせる
そんなひまわりのように 私は生きたい
(朗読「ひまわり」 第3話エンディング)
朗読「ひまわり~DVをのりこえて」の第3話は資産ある夫のモラハラから、主人公が子どもたちとともに逃れる実話だった。サイパンやハワイで泳いでいた生活から離れた夏、母子はビーチパラソルを抱えて三浦海岸に行く。帰りしな雷雨となり、道でビーチパラソルを広げて笑う。そのとき子どもがつぶやくのだ。「ママはやっとママになれたんだね。奴隷じゃなくて」。
この話の演出には随所に波の音が流されていた。20年近くたった今でも私は、波の音をきくとこのシーンに返る。条件反射のように。
朗読舞台をつくる市民ワークショップは途中から1回2時間が4時間になり、毎回ビシバシ! 劇団青い鳥の演出家・芹川藍氏から叱咤激励が飛んだ。「表現することは伝えること。けっして“私は素敵”と酔うことじゃない。人に見に来ていただくってことはたいへんなことです。みんなの気持ちをひとつにして、今回はDVのこの問題を世の中に伝える。原作者の気持ちによりそう。この人はどういう気持ちで言っているのか考えて」。
4か月たち、2004年11月。25人のチームによる初演が360人の横浜女性フォーラムホールで幕を開けた。実話を提供してくれた女性たちが招待席にすわっている。メディア各社も。だいじょうぶか? 舞台袖で祈る。
まる一年かけたしごと。「ひまわり」という作品タイトルは、舞台発表間際に決まった。なにを朗読するのかもわからない段階で、よく40人もの方がお金を払って10回のワークショップに集まってくれたと思う。
「横浜市女性協会では、年間6000件ある相談のうち、およそ3割がDVに関するものだという。朗読舞台は、女性3人の被害体験をオムニバスで構成。家を出てシェルターに逃げ込んだ後、自助グループを立ち上げた女性、アメリカ人の恋人から暴力を受けたが回復後は被害者の支援をしている女性、夫の精神的暴力から逃れ、離婚し、2人の子どもと平穏な生活を送る女性。「ひとりぼっちではない。自分らしく生きていい」というメッセージを観客に運んだ」(『週刊女性』2004.12.14)。
演出家の初演舞台あいさつでは「本当にたいへんな道のりで、無謀でした」。まあ。そういわれても。
月並みだが、「機が熟す」と「逃さずつかむ」は大事だと思う。やりたいしごとがあっても、理解者も資金もないときはじっと待つ。人的ネットワークを広げたり、好きなことに没頭したり、心許せる人と話したりして力をためる。なんといっても時間は均等に流れない。「いまだ!!」となったときに走れるよう、力は無駄に浪費せず、ためておきましょう。(いや、無駄から生まれることもありますけど。)
この年は本当にそうだった。一年後、職場は指定管理者になり、組織名も施設名もキョウドウサンカクに変わり、まるで違う会社のようになった。私も市への計画や報告の様式づくりに追われた。やってもやっても事務が終わらない。その一年前だったから、このしごとはできた。あとは、こんなことをやりたいんですと言ったときに上司が反対しない、できれば後押しするのは大事。
しかし、「長く無謀なしごと」が可能になったのはなぜか。まるで他人のことを調査するように、当時の書き物を前から後ろから見てみた。振り返ると大きな困難が二つあった。
一つ目は、原作を編集作業する中での葛藤。6月にワークショップ参加者を公募するに先立ち、3,4か月かかっていた。とくに、公開の場で語られた第1話は原稿がなく、同僚がテープ起こししてくれたものをもとに、本人と何度も何度もやりとりを重ねた。耳で聞いてわかりにくいところ、もっと率直にあるいは詳しく聞きたいところ、などなど。そのうちに相手を追い詰めているのではないかという不安に駆られ、相談職の先輩に相談した。「いくら目的があるとはいえ、思い出したくないことを思い出させたりして、その人の具合を悪くさせてしまうのではやらないほうがいいかと」。「率直に聞いてみましょう。なお協力していただけるかどうか」ということになった。すると返ってきたのは「私の意志で、これは協力しているんです」というお返事。彼女が自助グループを立ち上げてから5年、家を出てからは7,8年たっていたことも奏功しただろう。ありがたかった。
~~いま急に、精神科医・宮地尚子さんの「環状島(トラウマ理論)」※が浮かんできた。大災害の被災者にもよく例えられるが、深い傷を負った人は体験を語ることもできず、人に理解されず、ドーナツの内海に落ちておぼれがちだ。それを共通の体験として価値あるものにするのが土手に立っておぼれる人を引っ張り上げようとする人々。いやもっと複雑なんだが。このときはセミナーで当事者女性の語りをきいてわがことのように涙した人々や、ワークショップに集まってきた人々がわらわらと土手に集合していたのかもしれない。
二つ目の困難は、グループ(生き物!)の中の葛藤。朗読ワークショップに集まった女性たちがつくるグループのすき間の、そして力を発揮してくれた専門家とのすき間の調整である。それまで数年のしごとの経験からグループの力を信頼していたとはいえ、いやはや。けいこの途中で「人は愛され、愛するために生まれてきた」という原作にないセリフが挟まれてきたときには驚き、上司や相談員と相談して「それはやめましょう」となった。愛がなければ。愛するために人は生きていくと言われたら、愛のないときはどうするの? まったく違う物語になってしまう。提案された方の切実な気持ちもわかった。でも主催者がどんなつもりで行うか、「これはする」「これはしない」は、決めていかなければならない。
このことに象徴されるように、作品作りの中で参加者一人ひとりに葛藤が起きていた。DVをこえていく物語が自分の声を通して体内に入っていくにつれ、育った家族の、人生のいろいろな場面がめくれてくる。調整不能なそれらはときに不協和音となったが、招いてくれ、聴いてくれる人々に励まされて不協の山をこえたように思う。協同作業は苦しく、あたたかかった。
二つの困難の山。これらをみなでのりこえられたのは、立場も経験も異なる人々が同じ女性として人として対等であるという感覚を持ち、互いをリスペクトし、そして光さす方角をいっしょに見たいと願い続けたからではないかと思う。人々の中で、自分の1人分をまっとうしよう、として。私のしごとはそれぞれの立場をつなぐ1人分だった。同僚や先輩に相談できる関係もなくてはならなかった。
そのころに比べると、なぜか今は支援する人とされる人、サービスする人とされる人、仕事人とお客様、という図式に押し込まれているようにも思う。いつからどうしてそうなったの? 確かに時代は変わってみんな忙しくなった。長丁場の企画に集まってもらうのはむつかしい。けれど、あれからまだ20年もたっていないのだ。1人ずつに巨大な力が横たわっているのを活かさなくてはモッタイナイ。ちいさなキルト、変形してても、つぎはぎしていけたらいいよね。
「ひまわり」は全国巡業となり、みんなで走った。旅行に強い当時20代の後輩Yさんはツーリストを自称し、新幹線のチケットや宿の手配を担当していた。新幹線に乗ると朗読チームの女性たちは盛大なお菓子・おしゃべりまつりを繰り広げた。ぎょぎょっ。日常を離れることがみんな楽しかったのだろう。
市民劇団オンリーワンと名乗り(その頃SMAPが全盛だった)2年目には独立し、その後メンバーは変化した。何百回だろう、公演は20年近くたった今も細々と続いているという。
あしあとの旅は(つづく)
追記:『フォーラムブック16 ドメスティック・バイオレンスをのりこえて ~朗読作品「ひまわり」を読む』(絶版)は横浜市男女共同参画センターライブラリまたは横浜市図書館で借りられます。原作あるいは制作過程を読みたい方には、(私が)コピーをメールでお送りします。
※岩波ブックレット815『震災トラウマと復興ストレス』宮地尚子/2011年
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