#15 【番外編】父の短文 1962

今月初めに送った父が60年前に書いた短文。ガリ切りされた文集の一部分だった。書きもので発見したのはこれだけ。20代後半、高校の国語科教員だった。みんなが食うために必死だった時代。~いのちがつながる妙をおもふ。
小園弥生 2023.03.26
誰でも
1960年代前半の 父と私。葛飾・柴又で母の実家に居候していたころ。

1960年代前半の 父と私。葛飾・柴又で母の実家に居候していたころ。

5日未明に亡くなった父(1932-2023、享年91)を、12日に家族葬で送った。1枚の年譜を書き、喪主となった。父の教え子だった方たちも何人か来てくれ、心のこもった言葉をいただいた。私が子供のころ、家族のように出入りしていた団塊のお兄さんたちだった。なかの一人が「ぼくの結婚式で、先生は『結婚とは生物学的結びつきである』と言ったんですよ」とつぶやいた。なるほど、葬儀に集まったのは彼らを除き、すべて生物学的関係者だった。妻と子2、孫2、ひ孫3、子や孫の夫、妻の妹たち。来ないかと思っていた息子をみて、88歳アルツハイマーの母が「どちらさまですか?」と言った。

その後の整理をする中で、うまく眠れない夜がつづく。家族とはなんだろう? 私は父の娘だった。重いので逃げてきた。それがぐるぐると追いかけてくる。しばらくかかりそうなので、番外編を書くことにする。ご笑覧くださればと思います。

***

戸籍をみると、1957年に父母は婚姻届を出している。母の女子大の学園祭で出会ったらしい。結婚する直前に出かけた一人旅のことを回想して書いたと思われる短文が引き出しから出てきた。残していたのはこれだけだった。行き先が新潟だったのは、母が生涯こだわっている学童疎開の疎開先が新潟のお寺だったことと関係なかっただろうか。当時父は大学をようやっと卒業して、私立の早稲田中学・高校教員という職に就いたばかりだった。クラス文集で、ガリ版の字はだれか生徒さんが切ったもののようだ。父のページだけがコピーされてホチキスで綴じられていた。(送り仮名等、原文のまま書き写す)。

右が文集のコピー表紙。中身はガリ版だけど、この表紙もそうだったの? コピー機などない時代。 写真は「南房州 ・保田海岸 1960」と裏に。父は一番左。同僚と。

右が文集のコピー表紙。中身はガリ版だけど、この表紙もそうだったの? コピー機などない時代。 写真は「南房州 ・保田海岸 1960」と裏に。父は一番左。同僚と。

「日 本 海」

                小 園 泰 丈 

汽車はいつのまにか準急になっていた。長野駅に十分ほどの停車をしたのは夜半のことだった。いや思い出してみると上野駅を出たのがその日の最終に近い時刻だったのだから明け方だったようだ。九月のはじめというと信州リンゴが出始めるころなのだろうか、籠に十個ほどつめた青いかわいらしいものを車窓から買い入れる人がたくさんあった。早速口にもっていって山国の味をかみしめている人もあった。眠い眼にぼんやりした気分のぼくはそれを見つめていただけだった。整った身なりの中年過ぎの夫婦に勧められて一つだけ御馳走になった。どんな味だったかはもう思い出せない。五年も前の秋の話である。ホームには名物のそばを暖かく食べさせてくれる店があったように覚えている。

汽車はしばらくのざわめきを長野駅に残して出た。ぼくもその車内の客の1人である。

新潟に行くのに信越線回りを利用して別に不思議とも思わなかったその時のぼくには、沿線で目に触れ、耳に聞くものすべてがもの珍しかった。直江津あたりでは各駅停車の列車になって時おり通勤通学の人たちが乗り降りして車内の顔ぶれは1時間もしないうちにすっかり変わってしまうほどだった。丈の低い松がばらばらに砂の間に緑を添えている海岸のすぐ近くを走ることもあった。人家は数分おきに現れては消えて行った。雪の深い所にふさわしいと聞いていた低い屋根に、数多くの石を載せていた。ぼくははじめて見るこの風物に何かを忘れて視線を送り続けた。汽車がその辺を走っている時に、ぼくの目の前に座っていた夫婦は乗り替えるとかで降りて行った。リンゴをもらった御礼を言ってそのまま列車の音に身を任せていた。別れていった夫婦は、東京に住んでいる人だったらしく、新潟に行くには上越線回りが便利だったのだと親切に教えてくれた。そう言われても上越線というのがどこを通るものかさっぱりわからなかった。まもなく新潟で、その列車の終点となった。ぼくも降りることにした。新潟の駅は右側だけが賑やかで、もう一方の側は見通しのよくきく田舎めいた感じだった。急に空腹を覚えて、駅前に出た。正面を真直進み左に折れ、左に折れしているうちに方角の見当がつかなくなってしまった。道で通りがかりの人に尋ねる気もあまり湧かなかった。行先も時間もすべてが予定になかった。もちろん港のある方角がどちらだかも考えずにただぶらついた。

小さな店を見つけて丼物を食べた。金を払う時に「どちらにおいでですか。」と聞かれて困ってしまった。やむを得ず、港のある方角だけを聞いた。「佐渡へおいでですか。」と聞き返されて「そうです。」と答えた。店の主人は船の出る時刻を二つほど教えてくれた。ぼくの方にはどうでもよかった。ただ「佐渡」ということばだけは「海の向うにある島だ。」と思い返した。店を一歩出ると外はまだ夏を思わせる強い日射しだった。いくらか汗を覚えはじめた。木陰の少ない通りを歩きながらこの街は埃っぽい所と決めてしまった。その埃にむせる日中を十数分も歩いているうちに人通りの多い場所に出た。左に曲るとバスの車庫が大きな構えを見せている角で、そこを左にだらだら坂を過ぎた向うに大きな橋が見えた。船が見えるかも知れないとでも思ったのだろうか、そこまで足が向いた。石造りの太い手すりから下を覗くと、水の流れの上下がわからなかった。ぼんやりしているうちにやはり佐渡へ行くことにしようと気が動いた。引き返して歩き始めた。左に折れて歩いた。教えてもらった船の時刻にはまだありそうな気がして、アイスクリームでも食べようと思って、それらしい店を気にしながら行った。立派な店にははいりそびれた。ゆかたの着流しに、雨傘一本のお供では、われながら人目を憚った。

港まではなんとか辿りついた。船が出るまでにはかなりの時間があった。それを待合室で過ごすことにした。小耳に時おりもれて来る話の端々から見知らぬ島の様子が察せられるような気がした。ぼくの方で適当に脚色しながら聞いていたのかもしれない。どんな話だったかはもうすっかり忘れてしまった。見かけた折、島の人たちのお互に知り合った、日常生活の話だった。他人の話として楽しく聞いていた。一人旅の風来坊には話しかけてくれる人もなし、またこちらから話しかけたくなる懐しさも感じなかった。波止場に案内してもらった。船の横腹に古タイヤがぶらさがっているのが妙に気にとまった。船に乗ったことはそれまでに二回ほどあったと思うが、古タイヤは全く記憶になかった。船べりを上下する水面には油が浮いていて鈍い感じの汚水だった。船が波止場に横づけにされ、古タイヤのはたらきがやっとのみ込めた。

乗船する人は少なかった。新潟に所用があっての帰りの人が多かったようだった。暗い船室に数人ずつかたまって話が交わされた。中にははやばやと横になっている人もあった。小さなバケツが枕元に散見された。見ればそのバケツ様のものは船に備え付けのもので、片側に一列にきちんと並んでおり、何人かの客にそれぞれ引き取られているのだった。船に乗らなければ新潟の風に触れることのできない人々は、きっと度々の乗船の経験から、船酔いに備える心が自然に出来上ったものと思われた。観光の季節ではないらしく、客のほとんどが一様の表情で船室に陣どっていた。話の抑揚、顔に刻まれたしみの一つ一つまでもが、長い間、土地に根をはって生き続けて来た落ち着きにつながっていた。一人の風来坊が横合いから口を入れる余地など全くあろうはずもなかった。船底に近いこの三等船室に、かすかな明りを入れている円窓に時々しぶきが砕けた。

明り窓に誘われて、潮風の吹き抜ける甲板に上ってみた。波止場を出る時に見たあの薄汚れたよどんだ水は、今はもうすっかり清められたものに変わっていた。遠く左の水平線の上に黒ずんだものが見えはじめた。大きな雲かと錯覚した。それが佐渡の第一印象であった。後の方には、白っぽい海岸線が望まれ新潟の街とおぼしい辺りだけが、つぎはぎの色模様を見せていた。日本海の水は色々に変貌する。ある時は明かるく、ある時は暗く、青に藍に紫に。船は一回だけ小さな村落に立ち寄った。手漕ぎの小船が近づいて、荷物の交換を終え、二、三人の客を載せて、左に離れて行った。道もなさそうな崖が海岸近くまで押しかぶさっている村落には、わずか数百頓の貨物船を受け入れる港も築けないのだろう。船は大きく左に曲って、入江になったような所を進んだ。既に夕日の落ちかかる時刻だった。水はますます清らかで黒々と深かった。佐渡が島にも山があることをこの目で確かめた。その山の稜線だけはなだらかな柔い感じで空を支えていた。それを右に見て、両津の港についた。どこで見ても変らない港街だった。その夜の宿を決める前に街を一巡して様子を見ようと思った。十分も歩くと町並は切れてしまった。黄色い土煙をあげてバスが数台通り過ぎた。

佐渡が島を西に歩くと相川という町があって港があると知った。1時間ほど歩いているうちに相川行きのバスにいくつも越されて、夕日が落ちてしまった。はじめて一人であることをつぶやいて足が止った。相川までの道のりは見当がつかなかった。ゆかた一枚の袂からは冷たい夜気が感じられて、元来た道へ引き返した。両津の町には夜の窓が固くとざされていた。一軒の旅館に案内を乞うた。女の人に足元から顔付きまで眺められて名を告げることもなく追い払われた。二軒目に立ち寄った旅館の玄関先には、学術会議の福島要一先生何々とかの立看板があった。ここでもやはり同じだった。四、五軒の旅館を回って、すっかりくたびれてしまった。風体も怪しく金もなさそうに見えたのだろう。東京を出る時八千円ほどの金を用意していた。その時のぼくの全財産であった。少くとも佐渡に着いた時は六千円ほどを残していたはずなのだが、先方で通してくれないものを上り込むわけにもいかず、船着場までいったん戻って、駐在所で旅館の料金を聞いてみた。一泊二千円あれば上々との返事であった。一応安心した。ところが、駐在所の巡査は安心できなかったものらしい。色々と尋ねられた。東京から来たとだけ答えた。用件など何もないのに東京からやってくるのは納得できなかったらしい。職業・年齢をどうしても言わなくてはならない破目に陥った。中学の教師だと言ったら、今日は九月二日で、学校が始ったばかりだから信用できないとのこと。なるほどその前日始業式をやるにはやった。その翌日に東京の教師が佐渡にいるのはおかしいことには違いないと思って、一番安い旅館の名前だけ教えて下さいと頼んだら、それにはちゃんと答えてもらった。「おけさ館」という商人宿だった。ここでは面倒なことは何も聞かれずに済んだ。一泊二食付三百五十円ですよと念を押されて、その事務的な応対に気が休まった。ただし十二畳ほどの大広間に、得体のしれないお互の同宿だった。風呂をもらって早々に床についた。夜汽車の疲れから深い眠りに沈んだ。

翌朝、目がさめて、隣で寝ていた人に声をかけられた。あいさつをするのに事欠くようなことはなかった。色々な話を聞かせてもらって一緒に朝食をとった。

その日は佐渡で最も高級な旅館に投宿してやろうと思っておけさ館を出た。誰一人いない海岸で三時間ほど石を拾って遊んだ。時々港に小船の出入りするのが見られ、新潟行きの大きな船も出て行った。時雨が通り過ぎて肌に湿りを感じた。野良猫が海岸で怪しげなものを漁っては食べていた。結局その日の午後の最終便で両津港に別れを告げた。

(早稲田高校2A文集 「樹」 一九六二年三月 )

***

所持金全財産8千円というのは、調べると1957年の小学校教員の初任給だ。今なら20万円くらいか。浴衣の袂に入れていたんだろう。若い時、家ではいつも着物を着ていたし。一泊2千円ってずいぶんな。そんな高級旅館へ行って追い払われるのは当然だ。そして私にもこの風来坊の血は流れている、と思うとけっこう毛だらけ、な気がしてくる。「面倒なことは何も聞かれず、事務的な応対に気が休まった」のもわかる。「(船客らの)話の抑揚、顔に刻まれたしみの一つ一つまでもが、長い間、土地に根をはって生き続けて来た落ち着きにつながっていた」など、自分にないものをリスペクトしたものと思いたい。

新潟や佐渡はどんな土地なのだろう。商人宿「おけさ館」はもうないようだ。

父は子供が好き、山が好き、お酒が好きな人でした。琉球泡盛で送ります。

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