連載0 すっとこどっこい、よーいどん
1993年頃。カーリーな髪型はもう流行りを過ぎていたと思うが。。。
子どもを食べさせるために、10年はここで働こう。そう思って、気づいたら30年近くたっていた。なかまや皆様に支えられて。足を向けて寝られない方角が多すぎて、グルグル目が回る。ここというのは今では男女共同参画センターという名前になった横浜市の施設で、1993年当時は女性センターと言った。開館して5年。カオスのエネルギーがあった。ツワモノの先輩がたくさんいた。大陸から親の背中のリュックに背負われて引き揚げてきたという方も。リブの流れをくむ方もいた。いろいろなことが未分化だった。まだ、「男女共同参画」や「女性の活躍」が国家施策になる前のことだ。
インターネットはなく、もちろんSNSはなく、「シングルマザー」という言葉さえ新鮮だった。私(1961年生まれ)の世代は女の人が主婦になれた最後の世代かも知れない。女が働くのには何か理由が必要とされるような空気があった。貧乏であるとか、夫が病気であるとか、はたまたジコジツゲンとか。いまや働くのは当然になり、家庭も子どももと荷物は重すぎる。生きづらさの重力は増すばかり。無念。世代間ギャップ。けれど、変わらないものがあるはずだ。
悩んで働いてきた30年に、「しごとのあしあと」と手書きしたファイルが残った。そのときどきに書いてきたテキスト、入魂のチラシ(コピーを書くのが特に好き)、パンフレット、掲載記事などを突っ込んできた。振り返って、いま悩んでいる人、これからの人に役立つことはないだろうかと、恐る恐る……。悩みは恵み。「ぬちぐすい」は沖縄出身の同僚から聞いた言葉で、命の薬という意味だそう。ぬちぐすいが本当に必要な時代。これを書いて、私も次の場づくりをできたらと思っている。
その時々、カラダを入れて書いたもの、何かに発表した原稿をもとに、現在の目で振り返って加筆していきます。だいたい6回くらいの連載になる予定です。
本日の初回0号はすごろくでいえば、私の振り出しの号。本当にすっとこどっこいの日々でした。このあと、「自助グループとの出会い」「朗読『ひまわり~DVをのりこえて』の制作」「ファシリテーションと場づくり」「ひきこもるというレジスタンス~ガールズ支援の日々」と続く予定です。それでは始めます。
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0 すっとこどっこい、よーいどん
「シングルマザーのコーポラティブライフ」
(以下は『くらしと教育をつなぐWe』1995年1月 特集/女が働くということ 所収原稿より抜粋 しています)
いってきます
ブチの猫が歩いていく 引込線沿いの柵の上を
意気揚々とあくびなんぞしながら
アパートの住人たちのふとんと暮らしが干してある
柵のそばで揺れるオレンジ色のカンナ
私もまねして干してみる
茶箱の中のタオルケットと新しい暮らしを
かつて戦時には久里浜港まで伸びていた引込線
南洋まで横須賀海軍の物資を運ぶのに使われた
ソンナコトアタシニナンノカンケイガ、とばかりに
ブチの猫が歩いていく
5歳のナツミが歩いていく おかっぱの髪なびかせ
一本場の下駄をカタカタ鳴らしながら保育園へ
「おかあさん、おばあさんになってもはたらくの?
ヨコハマのおばあちゃんみたいにさあ」
「ナツミが早く大きくなってあたしを食べさせてよー」
「ええっ、まだこどもだもん」
それでもナツミはずんずん大人になっていく
大人たちの嵐や難破やもろもろの波風を受けとめて
振り回したり傷つけたり
抱きしめたり泣いたりしてしまう
女が走っていく アパートのカギをカチャリとかけ
7時55分の京急に乗り遅れまいとして
仕事場でくたびれると これは世を忍ぶ仮の姿? でも
どうか仮だらけになりませんようにと祈る
誰も言ってくれないから自分に言ってやろう
アンタ、ケッコウガンバッテルジャン
今日も会いたいだれかに会えるかもしれないし
小さな期待の結び目合わせて
ゆっくり行きなさいよ
ではでは いってきます
私はこの道まだ1年と4ヵ月の、駆け出しのシングルマザーだ。某女性施設に遅ればせの就職をしてまもなく、「これでリコンできます。採用してくれてありがとう」と女ボスに言ったとか。そうだったかしら。人間、さっさと忘れるものだ。遅番勤務を終えてさっさと帰って10時半頃。寒い季節に近所のみどりさんの家から、寝かかってグニャグニャしてる子どもを自転車に積んで星を見上げる瞬間は、まさにシングルマザーを実感するひとときである。
実を言うと、精神の自由のために貧乏を謳歌して10年近くも暮らしてきた私に、時間貧乏はことのほかこたえた。市民運動のライブにかかわれないなんて。私がかかわってきた反基地運動や日韓連帯運動、在日韓国人の人権運動などの中、からだで覚えてきたことは、日々自分を支えてくれていると思う。たとえば、人は職業や年齢や収入によらず平等であり、そういう水平な人間関係が心地よいこと。人は一人ひとりがとんでもなく違うもので、各々の個性や長所を生かしてチームワークできたときにダイナミズムが生まれること。ちょっと大きく出て、真実と美は抑圧される側にあること。はたまた、自分や仲間が落ち込んだときはどうすればいいかの処方箋。
しかし、貧乏していたころも私はせっせとアルバイトに精を出していた。一番長くしたのは在宅の校正の仕事。雑誌のレイアウトや辞書の見出し作りなどのちまちましたパズル仕事。酒場のピアノ弾きエキストラ。韓国語の翻訳・通訳。あちこちの下請けやボランティアをやりながら、月に15万円ほどを稼ぐのはたいへんだった。
晴れてシングルマザーとなり、毎日がすがすがしかった。初めて月給をもらったときはうれしくて、これで食べていけると思った。が、家計簿をつけてみると、ギリギリもしくは赤字と判明し、心臓に悪いのですぐやめた。
毎日が学びの日々。企画などで準備の過程では綿密な計画と気配りが要求される(にがてー)。ものごとのバランス、公平さを見極めること、主張するときには論理と説得力、わかりやすさと冷静さを持つこと。同僚との信頼関係。多くのことの中で優先順位をつけ、できないことは引き受けないこと。疲れていても来客にはニッコリと親切に。ああ、わかっちゃいるんだけど……。最低限の線はクリアしなければ同僚に迷惑かけるばかり。訓練が必要と認識するのと、そんなことは考えたこともない以前の私とはえらい違いである。苦労して稼いだお金で飲むビールのうまさといったら。
石の上にも5年と覚悟して走っている毎日ですが、暮らしは必要に迫られてのコーポラティブライフです。私はほとんど近所のみどりさんに寄生虫みたいにひっついて暮らしている。みどりさんは絵の先生で、同じ保育園に通う娘の母でもある。女の子を産もうね、って約束してお互いに産んだ。毎日、保育園の送りついでに近所の核燃料製造工場JNF(横須賀市久里浜工業団地にあり、日本の原発の半数に燃料を供給している)に輸送トラックが入っていないかを監視している。
核燃料輸送は深夜に信号機全部を青に(警察が)して、普通の道路を行く。妊娠中のみどりさんは深夜の工場門前で「放射能を送らないで!」と叫びすぎて子どもを産みそうになり、それから臨月まで寝たきりになってしまった。その頃ナツミを産んで家に閉じ込められていた私は毎日おかずをもっていった。で、いまは「つかれたー」と帰ると、ごはんたべさせてもらえるありがたさ。ああ、人の家は自分の家。私は彼女から地域情報~生協や共同購入会、親子劇場の運営にまつわる話が多い~を聞き、ともに悩み、対策を考える。土曜日、彼女が絵画教室の時はときどき子どもの面倒をみる。食費と子どもの保育園の送り迎えの実費プラスアルファは払う。
「ハンディキャップのある人たちの助け合いの家、なんて言うんだっけ?」「グループホーム?」「そうそう、それだよね。わたしたち」
女二人プラス男一人では人手不足は解消できなくて、保育園のネットワークも重要だ。子どもも、色々な性質の大人と付き合うことで世の中を勉強する。訪問看護婦のミチコさんに迎えに行ってもらったとき、「子どもを遊ばせるのにちょうどいい公園があるよ」とナツミが提案したとかで大笑い。人の立場に立ってものを考える練習にもなる。
人はいつ病気になるかわからないし、今ひとりで食べていけるからといって明日もそうとは限らない。ときにはだれかと交代できたらどんなにいいだろう。これはもはや一対の男女では限界がある。お父さんとお母さんと子どもがいて平和な家庭なんていうのも、ごくまれだと思ったほうがいい。同性だっていい、性愛があってもなくても、ともかく楽しくて広がりのある形態で住みたいものだ。そして、家族は必要に応じて、組み替え可能なものにしたい。アメーバのように。
そのとき、人は試されると思う。どんなふうに人の役に立つかということを。いるだけでなごむ人、なんてのもいいよねー。そういう男が増えればね-。身の回りはさっさと片付けてかさばらず、そうじ、皿洗いが大好き、とか。
そういう男や息子たちを育てるためにも、「女は働いても働かなくてもいいし、選べていいわ」なんていつまでも言ってるのはフェアじゃないと私は思う。世の中を知りつつ、夢を喰って生きていきたい。そのためには苦労もしよう。自分を含めて、女の人は社会的な訓練が足りないと思う。6歳のナツミに向かって私は言ってしまう。
「魔女の宅急便のキキみたいにね、13歳になったら自分で働いて生きていくんだよ。そしたら、指輪でもなんでも好きなものを買えるからね(彼女はキラキラしてるものが大好き)。王子様は日本にはいないんだよ。いなくても、今あたしたちは幸せでしょう?」
孤独な闘いじゃないよ。みんなで幸せになるために、まず私が幸せになることを求めて、天高く夢肥ゆる秋。
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1994年に書いた原稿の抜粋ここまで。
「家計は赤字だった」と書いているが、1993年の私(32歳)の初給料は残業なしの手取りで24万円。天にも上る? 厚生年金も健康保険も税金も引かれた後である。基本給22万4千円。これは前歴加算がアルバイトでも主婦でも、きちんとつくように制度設計されていたことが大きい。それに子どもの扶養手当、大都市での調整手当がつき、今はない住宅手当や特勤手当(遅番と土日勤務に当時加算。これだけは嘱託職員も同じだった)がついていた。アパート代と子どもの保育その他にそれぞれ7万円以上かかっていたが赤字とは、やりくりという概念がなかったのだろう。スミマセン。
石の上にも3年目の1995年。まだ仕事もろくにできないのに、このあとすぐに私は産休・育休をとることになる。「ええっ、シングルマザーだったんじゃ?」。ざわざわざわ~。職場で最初の育休取得だった。当時、育児休業給付金は月給の25%(2022年現在は67%)で、月に数万円。それでも、アルバイトで稼ぐ大変さが身にしみていたから、ありがたかった。復職したら、もっと全体のために隙間を働こう。1996年、なかまと組合を作った。「役に立つこともあるんだね。呼びかけ文もわかりやすい」と初めて職場で認められたような。
続けていくのは(しごとも組合も)大変だったが、その後も組合活動で様々な人とかかわれたのは財産だった。「なかまは力」と機関紙“げんこつ山”に書いた。異動していろんな仕事をするたびに、力のある同僚とチームを組むことができた。いっしょにこの仕事をやろうよ、と根回しもよくした。組織外の人にも助けを求めた。何もないところから作っていく仕事はときに苦しく、おおむね楽しかった。
たとえば、初めての担当は交流ラウンジという市民活動スペースの管理人で、破るのが得意だった規則を作らなくてはならなくて困った。まだNPOという言葉はなく、「市民活動」さえ新しかった。市民活動応援講座というものをやることになり、つまり情報発信や人材育てや金策のマネジメント講座で、今なら当たり前のことが当時は手本がなく、私にはさっぱりわからなかった。やりたくない仕事、合わない仕事というものもときにあると思う。けれど、やっているうちに参加者や関係者に助けられて、だんだん意味がわかってくることもある。職場内でも本流ではない新しい仕事だったので、「キャリア〇〇」のプログラム(私とは縁遠いと思われた)を遂行している同僚にも理解してもらおうと、1講座終わるごとに内容やアンケートをまとめたファイルをていねいに作って回覧の旅に出した。
みなとみらいの海を見晴らすラウンジにはさまざまな人が、日に100名はやってきた。国際エイズ会議(1995年)の時などは大忙し。寿町の外国人労働者や、中国残留孤児で帰国した人たちに日本語を教えるグループなども。耳全開でいろんな人の話を聞いた。でも、当然のごとく自分とは相容れない価値観をもつ人たちも大勢やってくる。人いきれに疲れてしまって、その頃久里浜に住んでいた私は、休日によくフェリーに乗って房総半島に出かけた。人がいない場所を求めて。金谷の黒湯の温泉であたたまった。
☆彡
この間、「横浜女性フォーラム」という施設名だった職場は、1999年の男女共同参画基本法成立をめぐる攻防(「男女平等」は却下された)をへて日本語に本来ない「男女共同参画」センターという施設名になった。同じ2005年、施設の指定管理者にもなった。行政への報告連絡事務が倍増し、数値目標にも追われ、人と関わる時間が減った。枠組みは強固になったが、自由度は減った。経済状況は悪化し、貧富の格差が開いていった。主婦で食べられる人は若い世代では希少となった。生活に追われ、市民活動をする余力のある現役世代は少なくなった。
この数年、悩んできたこと。自分が安心・安全に働くこと、安全にわかちあえる場を人々に提供することをめざしてグループワークなどの場づくりに没頭してきたが、あとからやってきた後輩にそれは伝えられていたのだろうか。いま、若い人たちは働くことは被害をこうむることと思っている? できるだけコミットメントしないでおくのが処世術? それでも、小さな窓を開けたらなにか希望が生まれるのでは。ちょっとでも話す仲間がいれば。おしゃべりや対話をすることで、ちょっとずつ地面を耕せないか。農婦のように。
土がカチカチに固くてはタネを播くこともできない。そう思って、農婦活動。異動するたび、農婦の私はくたくたになったが、農婦なかまを増やしつつやってきたつもりだった。放置すれば土はなくなり、沼になり、岩盤に届くには機械で深くボーリングしなくてはならなくなる。
仕事の方法、組み方、もちこたえ方はいろいろあると思う。逆境のときは力を抜いて、ほかの楽しみやなかまを見つけることに精を出していたこともあった。どうしようもない自分の性質に自家中毒になったこともあった。いつも一人ではサバイバルできない。世界も人も捨てたもんじゃない。あーじゃない、こーじゃない、という旅は楽しいと私は思います。あなたはどうですか。
(つづく)
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