連載11 「はたらく」をめぐるぐるぐる
工業地帯
死んだ街に雨が降る
痛む右足を引きずって
女は今日も仕事へ行く
少ない電車を乗り継いで
赤い傘だけさしたまま
痛む右足を引きずって
女は今日も仕事へ行く
黒い影だけ立ち並ぶ
静かな角を通り抜け
だれかが息をひそめてる
段ボールの家 横目にし
女は今日も仕事へ行く
知らない部品 作りに行く
戸塚駅西口のデッキより空を見上げる
この詩を2010年のころ、通信制高校を出たばかりの19歳が書いていた。それは出会ったばかりの彼女だったんだと、2022年の最近知る。10年は あっ、と過ぎていって。
「働いていないことがよくないことだとわかっていても、からだが動かない。世間が怖い。人が怖い。そんな恐怖をなんとか処理したくて、ひたすらパソコンに文字を書き連ねました。(中略) どうやったらうまく生きていけるでしょうか。19歳から何年たっても、わかりません。何度も死にたいと思いながら、それでもなんとか生きています。」
(2019年 『底辺主義』あとがき/私家版 ZINE とくのじ 作 )
30歳になった彼女は今年、実家を出て念願の一人暮らしを果たしている。紆余曲折の末、障害者雇用の社員として一般就労を果たし、貯金をし、好きなチームの株を買い、「ちょっと増えたんですよ-」と言う。「えー、すごいっ! 」。私など足元にも及ばない、知恵者である。
「仕事へ行く」は「知らない部品 作りに行く」。足を引きずって。詩にはたぶんいろんな意味があるし、切り取っては申し訳ないが。
アメリカ人による
『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』が少し前に流行った。社会的仕事の半分以上は無意味であり、仕事を自尊心と関連付ける労働倫理と一体となると心理的に破壊される、と。クソみたいなしごととそうでないしごとは、きっかり分けられるわけではなく、入り混じっていて、どんどんクソに浸食されてきているような。「これ、いったいなんのためにやるの? 」~もうかるから。指令だから。「そんなことは考えなくていいのです」。あれれ~~。
かえっこの、おもちゃたち。もっと大物もあるよ。ここにもガールズ講座の卒業生がボランティアでかなり参加していた。おもちゃマニアもいて楽しかったな。
おもちゃの「かえっこバザール」ボランティアが楽しくて、ときどき参加している。ここで持ち込まれて引き取り手のないのはMハンバーガーの景品と、行政がごみ削減のキャンペーンのために作っているプラスチックのキャラクターたち。本来、人に遊んでほしいおもちゃを交換する場なんだけど。。。主催者はそのごみたちを部品として、巨大なオブジェを作った。
私の30年の中でも、利潤を追求するのではない公共サービスの仕事でも、事務と気働きに追われ、手を伸ばしてもしごとの中味、醍醐味は薄くなったと感じる。
1993年6月×日。入職して半月後の日記より。(「横浜女性フォーラム」 開館5年目)。
「今日朝礼で司会の相談グループHコーディネーターが、“離婚の相談が多いです。みなさん! とにかく結婚は遅く。離婚は早く。以上です”と言った。午後にはOJT研修で出た、子どもを預ける女性のための保育説明会では、N先輩がまるでアジテーションみたいに母親たちに語っていた。“女性の学習権が保障されないのはおかしいと思いませんか?”って。職場が刺激的過ぎて、くらくらする。」
最初の10年。仕事に慣れようと、借りてきた猫みたいに努力し、内外になかまを求めた。働く環境はしごとするだけではできない。お客様でいては。環境は自分で作らないと。組合も作ったし、いろいろな市民活動にも参加した。途中でもう一人子どもを生んだのも、外向きのエネルギーゆえだったかも。半年休んで復職した。家にいるより働くほうが楽しかったし。なかまがいたし。
1990年代の職場で、団塊世代の上司は「昇進して決定権をもつことがだいじ」と断言していた。へえ?? 私にはあまり関係ないや、と思った。これは性格なんだろうけど、私はいつもゆっくりぼんやりしているので、怒りなどもパッと燃えずに夜中に「なんか変だなー」とぐるぐるして眠れなくなる。人より時間がかかる。でもいったんそうなると、作戦を考える。言っても届くか、変わるかはそれはわからない。でも、例えば職場内のことなら上司にこのことはこうしてください、なぜならば、と言わずにはいられない。一度で伝わらないと思ったら、二度も三度も言う。「ねぇ、言おうよ」とほかの人にも言う。問題は社会化されて初めて問題になるんだから。人は三度聞いたら、少し引っかかる。と思う。できれば別々のところから聞こえるといい。正社員だからそう言える、といわれそうだけど。でも昇進したら言えないこともあるし、それ以前に、言うことを目くばせしあえるほうがからだにいい。空気がいい。
これは2013年。再開発が終わったあとの新 戸塚区役所。路地だらけの、闇市ルーツのさくらモールのあった戸塚西口は混沌として楽しかったんだけど
2000年代の10年はしごとが組み立てられるようになり、無我夢中で。いろんな人や団体と組んで、この連載でも書いてきたような仕事をした。出会う人たちから教わった。が、いっぽうで社会の構造も激変した。
たとえば、連載8で書いた再就職準備講座のファシリテーターの後、ひとり親向けのプログラムを多数企画した(児童扶養手当が削減され、就労自立が推進された2000年代、自治体からのオファーが多かった。日本のひとり親は世界でも高就労率なのに)。「ゆっくり講座」という人気コースでは、始まってみると半分くらいの人が寝ていた。そんなにつまらないのかな~と落胆していたら、服薬のせいで安心すると眠ってしまう場合が多いと知った。現役で市民活動をできる人は減り、地域には心身の不調な人が増えていた。社会が生み出していた。
2005年、施設が指定管理者になった。社会の構造が変わっていった。何年かごとに提案書を書き、プレゼンをする。細かくてきびしい数値目標にも管理される。職場で、自分たちで決められる範囲は狭くなった。「ボリューム(量)が大事」!といわれ、私も広報担当として「こんだけやっています」パンフレットを作った。施設の名称も変わり、それまでなかった計画と報告の膨大な事務しごとの日々は、まるで別の会社になったよう。やってもやっても事務が終わらず、いつしか「お疲れさまです」という挨拶が出合い頭に、メールの文頭にかわされるようになった。「えっ。私は疲れてないよ」と思ったけど、本当は疲れていたんだな。
同時に、公共の安定職場と思って入職する人も増えた。くらくらもワクワクも減っていったような。いやこのあとは私が若者をくらくらさせていたのかもしれないけど。
くたびれると港で補給。内房 浜金谷港にて(千葉)。
2010年代の10年は悩んだ。働きづらさに悩む“ガールズ”支援のしごとを立ち上げ、バトンを渡しつつ。前回書いた「船着き場」で出会う人々と、どんな時代をつくっていけるのか。一億総活躍が喧伝され、女性が障がい者が高齢者が「働く」ことが国策になったなかで。働ける体調でないときにも「働いていないことはよくない」と人が思わせられるなかで。
最も悩んだのは、若い世代のメンタリティを理解して働くことのむつかしさ、だったように思う。私といっしょに働く若者たちも支援対象のひとたちと同じ時代に育ってきて、傷を負って今なんとかここに生き残って居るのだろう。しかし、いっしょにチームをつくって、やりくりしていくことについて自分は非力だった。もう少しなんとかやれなかったのだろうかという無念が、今わたしにこれを書かせている。
「私の世代か、もうちょっと後くらいまでは“案ずるより産むがやすし”のおまじないが効いた時代だと思う。でも今、それは効果がなくなっている。世界の寛容さがどんどん切り崩されている」と同世代の斉藤真理子さん(翻訳家)が『すばる』に書いていた。そう、おまじないに励まされて、場を与えられて、やってみたらやれたこともあって。いま、切り崩された岩壁を若い人たちは生きている。で、私なんか「この人、なんて能天気な」と思われているんだろうな。これを「分断」という。
江戸時代から石切り産業で栄えた鋸山の、切り崩された岩壁。右上の尖っているのは名勝「地獄のぞき」。ここは安房(あわ)の国と上総(かずさ)の国の国境尾根でもあり。ただいま日本遺産候補になっています。絶賛応援!!
遅ればせで係長職になったとき、その部署であまりに情報が共有されていないことに私は驚いた。電話で「担当者がいなくてわかりません」とお客さんに言っている。シフト勤務だから、よくいない。いやはや、ややや。働くには土壌が必要だ。土壌がないところには、ぺんぺん草も生えやしない。毎日、細かな改善を画策し、私はひそかに農婦になった。大地をもくもくと耕すのは不得意。でもしかたない。疲れて、夜10時にはぐーぐー寝た。一人では限界があるから、農婦仲間を増員しようともがいた(まだ土があったからよかった)。三か月くらいで、ちょっと土が柔らかくなってきたのはありがたいことだったです。農婦には仲間が不可欠だ。
(つづく)
次回は今年最後。予告「分断は超えられるか」。ジャーン!
農婦にはスイーツも。鋸山の石で焼いた「のこぎりバウム」。ほっぺが落ちるよ。この年輪。遠い目に。。。
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