#16 【番外編・続】父を拾う 2023

久方ぶりに詩(のようなもの)を書きました。しんとした夜更けに。書かずにはいられない。生かされて在る、自分の現在として、つつしんで。
小園弥生 2023.04.15
誰でも

父を拾う  
             ~
2023年3月に

     1 

白い骨になって出てきたのを見て
ひ孫・4歳は言った
「あしがないと てんごくにいけないよ」

黄色くなったあなたに一時間よりそい
孫娘・34歳は泣いた
「おじいちゃんはわたしの安全基地でした」

蒼い遺影に向き合い
娘・61歳は思った
あなたをあきらめてきた くりかえし

かつての教え子・76歳がつぶやいた
「ぼくの結婚式で、先生は言ったんです
“結婚とは生物学的な結びつきである”ってね」

べつの教え子・77歳が語った
「高校1年で六〇年安保闘争に出会ったぼくらを
いちばんあたたかく見守ってくれました」

     2

1971年からの24年間
あなたが精魂込めた闘争
そのなかまの不在を
わたしは思っていた

人は闘いを始めたり、休んだりする
時間は詰まったり、ゆっくり流れたり
からだは倒れたり、回復したり
そして骨になる

若い日は正義のかたまりだった
正義は人や自分を追い詰めることもある
からだも強くなかったから
苦しい日々だったでしょう

あなたが戦列を離れてまもなく
経営悪化した会社が折れた
闘い続けたなかまのおかげで原職復帰し
天下の回りものを手にした

     3

若い日のまさ子さんが
「結婚を前提に」と
せまったのですってね

中年のまさ子さんは
出版ブームのころ赤ペン一本で
あなたと子らを支えました

老年のまさ子さんは
あなたの暴言で
感情を一時閉ざされてしまいましたが

あなたが入院し、離れてから元気になり
いままたおふとんを二つ敷いています
散歩のたび「一寸出かけてきます」と書き置いて

もうすぐ
あなたが二人分購入した
横浜市営墓地にまいりますよ
まさ子さんはまだ当分こちらでしょうが

     4

1980年、家を出る19の娘に
「何が不足で」と赤鬼になったね
(あなたが重たすぎて)

その後娘の心配はせず
息子の心配ばかり
孫娘らを愛して、あなたは去った

死亡保険金額は語る
あんまり あんぐり
黒い笑いがふつふつとこみあげる
人間が生きるとは滑稽な

葉隠れの佐賀のオールドボーイめ!
死んでなお、あきらめるんかい

     5

この数年は認知症の自覚なく
修羅場の数々をともにした

医者が大嫌いだった
民間救急車で医療保護入院
断られた末の老人ホーム入所
看護師さんに添われて最期の入院 

到着するのを待っていたのか
明け方のあなたはまだあたたかく
わたしは白い部屋で
鈍色の空を見上げた

91年間おつかれさまでした

むかし哲学青年だった
もう軽くなった
父を拾う

旅の始まりだった

***

亡き父の教え子で、かつて家族のように過ごした人々が「弥生ちゃんの慰労会を」と葬儀からひと月後に開いてくれた。参加者は5名。みんなすでに後期高齢者だ。私は子ども時代に返る。かつてお兄さんたちだった人々は当時2間しかないうちの借家で、父と定期的に読書会をしており、その後の宴にいつも母がおでんを煮たりイカの塩辛を作ったりしていた。あるとき「〇〇君の出所祝い」があった。1968年ごろ。「シュッショってなんだろ。 え? その人ってシッポが生えてない?」と子どもごころに思った。

慰労会には、私家版ZINE「父を拾う」(16ページ)を数部作り、それぞれの方のお名前と謝辞を書いて手渡した。年譜はこのレター#6で書いた詩人・高良留美子さんの立派な自筆年譜を参考に、簡素なものを作った。盛り込むべきは、どこにだれと住み、いつ係累が生まれ、学校はいつ出て、どこでなんの働きをし、いつ病気になり、どうやって逝ったか。

みなさん、語る、語る。。。前回載せた父の短文エッセイ『日本海』をみなさん このレター回覧で読んでいて、「小園先生が新学期に来なかった日があってさ。なんでも駅に着いたら上野駅に足が向いて、佐渡まで行ったと聞いたことがある」。かと思うと、「家業が倒産して、授業料を払えなくなったヤツがいたんだ。そのとき先生は3年間、黙ってそいつの授業料を払ってやっていたんだよ」

私学の教員なんて安月給だったと思う。私が生まれる少し前、5千円だったと聞いたことがある。でも、授業料は高かったのではなかろうか。まだ戦後10年余りのころ。「わざわざ私学に入るなんて、どんなお坊っちゃまたち?」と聞いた。「山の手の生徒もいたけど、ぼくらの仲間は下町の商売人の子供ばかり」。テキ屋の親分の息子。花街の息子。炭鉱の技師の息子。たしかに。この生徒たちに中・高と6年付き合って、卒業したころ、父は教員を辞めたという。子どもの好きな人だった。

しばらく風来坊をしていたが、弟が生まれて生活のためか出版社に入り、「校正の神」と呼ばれ、さらに激動の歳月があった。その激動をともにした、父より年下だった人々にも死んだことと感謝を伝えたいと私は思った。意を決して、父の古い住所録の電話番号をたどる。ある人は亡くなっており、ある人は療養中だった。ある人は電話の向こうで話してくれた。

「小園さんはね、元教師だったからか集会の次第をきれいな字でいつも板書するの。それでね、“インターナショナル 斉唱” って書くのにみんな苦笑していた」

♪   起て 飢えたる者よ 今ぞ日は近し
  醒めよ我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ
  暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて
  海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく

  いざ闘わん いざ 奮い立て いざ 
  ああインターナショナル われらがもの ♪

敵が目に見える時代は「われら」「腕結び」ゆきてよかったのでは? お父さん。孫たちのいまはもっとたいへんよ。「暴虐の鎖」はすでに体内に埋め込まれていて。狭い世界で分断され、自分を傷めてる。毎日が暴風雨で被災して。でも、夢破れて山河在ったように、災害から復興するように、日々ちいさな復興作業をつないでいくしかないよね。

ラナンキュラスが好き。ぎゅっと巻き巻きしてるひと。凝縮していきたいねー

ラナンキュラスが好き。ぎゅっと巻き巻きしてるひと。凝縮していきたいねー

***

ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。次回からはまた、私の「しごとのあしあと」のおはなしに戻ります。(番外編 終わり)

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